4.真夜中の訪問者

 二度目の脱走となれば、説教もそれだけ時間をかけたものになる。しかし、フィナンシエの落ち着いた声による忠告は、残念ながらわたしを心から反省させることなど出来なかった。もちろん、フィナンシエたちに多大な心配をかけてしまったことは悪いと思っている。けれど、脱走しなければグリヨットたちがいち早く人間たちの動きを知る事は出来なかった。

 わたしの心には、クレモンティーヌから直接いただいた短い感謝の言葉が灯り続けていた。わたしの勇気が野良妖精──いや、同じ妖精たちの未来に繋がっている。そう思うと誇らしくて、脱走したことを悔やむ理由なんてどこにもなかったのだ。

 きっとフィナンシエの態度もまた、わたしが気楽でいられた理由だろう。彼はどうやらわたしが無事に戻ってきたことで納得していたようで、この説教自体も同じく心配していた使用人たちの手前、せざるを得なかったようだ。お陰で覚悟していた以上に軽い気持ちのまま説教は終わり、わたしは自分の部屋へと帰る事が許された。

 けれど、これで終わるわけではなかった。真にわたしに罪悪感を持たせたのはフィナンシエではなく、部屋で帰りを待っていたキュイエールだったのだ。常に紳士的であろうと努めていたフィナンシエとは違い、彼女は剥き出しの感情をわたしにそのまま向けてきた。その素直な言葉は、わたしにとってはあまり馴染みのないものだった。生家での鞭を伴う躾は大変厳しいものではあったけれど、教育係の夫人はいつだって落ち着いていて、さほど感情的になって叱るということはなかったからだ。だが、キュイエールは違う。心配と不安と恐怖とそして安堵感が入り混じったその声が、わたしには新鮮で、心を震わされてしまったのだ。

 もしも、わたしが卵を産んでくれた本当の母親に妖精らしく育てられていたら、こんな風に叱ってくれることもあったのだろうか。そんな妄想をしていると、不思議と涙がこぼれそうになってしまった。だからわたしはキュイエールに親しみを感じるのだろう。叱られながら静かに納得していると、そこへ忘れかけていた今日の記憶が突然ぬっと顔を見せてきた。

 ──どうか人間を信用しすぎないよう。

 どうやら心にはヴァニーユの言葉が刺さったままでいたらしい。一度それを自覚してしまうと、あとはどうにもならなかった。わたしは信用している。フィナンシエのことも、キュイエールたちのことも。しかし、ルリジューズ、ヴァニーユ、そしてアンゼリカ。その場にいた良血蝶々たちは、いずれも人間たちによって苦しめられ、あの場所に追いやられたのだ。彼女らの主人と、フィナンシエは何が違うのだろう。フィナンシエの気がこれからずっと変わらないなんてことはあるのだろうか。いや、彼が変わらないとしても、状況が一切変わらないなんてことはあり得ない。妖精に優しい人間はいても彼らは不死ではないのだ。妖精に優しい人間が一人この世を去るだけで、その恩恵に与っていた妖精たちは必ず影響を受けてしまう。これは他人事なんかではない。わたしだっていつそうなってもおかしくない。そう思うと、一気に怖くなってしまったのだ。

 頭をよぎるのはアンゼリカのことだ。あの日、わたしがフィナンシエの妖精になれてほっとしていた会場に、彼女もまたいたという。わたしと同じ目、同じ髪をした彼女。見た目も体形も申し分なく、何が不満で手放されたのかなんて分からない。しかし、アンゼリカはあの場所にいた。暗い顔で、全てを諦めたような目で、彼女は野良妖精として生きていた。そんな彼女が身の上を語る事はとうとうなかった。聞くことも出来ず、ただ、恨むような眼差しを時折向けられて困惑していることしか出来なかった。

 アンゼリカとわたし、一体何が違うのだろう。運が良かったか、悪かったか、ただそれだけじゃないのか。悪い妄想は止まる事を知らない。いつの間にかわたしの心は不安で満たされていて、キュイエールのお説教も頭に入らなくなってしまった。

「マドレーヌ、聞いているの?」

 就寝の準備をする間も、キュイエールはお説教を続けていた。しかし、わたしはろくに返事も出来ず、ただただ不安と恐怖でいっぱいになった頭を抱えていることしか出来なかった。そんなわたしの顔をキュイエールは覗き込んできた。

「マドレーヌったら……」

 そう言われてようやく目を合わせると、キュイエールは途端に悲しそうな表情になった。

「もう、そんな顔をしないでったら。何もわたしはあなたを傷つけたくて言っているわけじゃないの」

「うん……分かっている」

「じゃあ、もうしないって約束してくれる?」

 わたしは頷こうとした。だが、素直に頷けなかった。どうせきっと、わたしはまた脱走する。同じようなことがまたあったならば、どうしようもなくなってルリジューズのもとに駆け込みたくなったら、妖精のための妖精たちの世界に躊躇わずに飛び込んでいくだろう。それが分かり切っているからこそ、この嘘は吐けなかったのだ。なかなか頷かないからだろう。ルリジューズは深くため息を吐いて、静かに言った。

「事情があったのは分かっているの。お外で可愛いお友達が出来た事もね。でも、それってあなたの命を危険に晒してまでしなきゃいけないことなの? いいえ、違うはずよ。だから、ね、もう逃げ出したりしないって約束して」

 頷きたくとも頷けない。ここで納得させたって、あとでもっと失望させるだけなのだと思えば、とても出来なかった。そんな頑なな態度に心が折れたのだろう。キュイエールは重たい息を吐いて、わたしの頬をそっと撫でてきた。

「いいわ。もう分かった。わたしが何と思おうと、あなたは旦那様の妖精だもの」

 言い捨てるようにそう言って、ふと我に返ったのか、キュイエールは静かに付け加えた。 

「ごめんね、マドレーヌ。疲れているでしょうから、今日はおやすみなさい」

「……おやすみ」

 どうにか返事をすると、キュイエールは苦笑を浮かべてそのまま去っていってしまった。部屋の扉を閉められると、わたしは一人きりでベッドに寝そべり、一角獣のぬいぐるみを抱き寄せた。その柔らかな感触とかつては蝶たちの守り神だったという神話を思い出しながら、感傷に浸っていた。あれこれ考えたって今のわたしに出来る事なんて何もない。しかし、動き出した思考はなかなか止まらず、睡魔を遠ざけてしまった。考えれば考えるほど、分からなくなっていく。

 わたしは間違っていないはずだ。そう思いたい気持ちと、もっと反省するべきなのではないかという気持ちがぶつかり合って、どちらが正しいのか分からなくなる。あんなに動いて疲れているはずなのに、ちっとも眠くなかった。仕方なく寝返りを打って、わたしは硝子張りの壁の向こうを見つめた。今宵は満月らしい。いつもならばキュイエールが厚いカーテンを閉め切ってしまうのだが、説教に気を取られていたのか、はたまた気分転換に気遣ってくれたのか、カーテンはそのままだった。お陰で庭を見つめることが出来る。空を飛んでいるのは蛾か、蝙蝠か。気を取られてじっと見つめていると、あれほど辛かった思考の巡りも滞り、忘れていた眠気が段々と蘇ってくるような気がした。

 けれど、いよいよ夢の世界に入れるかと思われたその時、突如として屋敷の庭に何者かの影が現れたのが視界に映り、眠気が吹き飛んでしまった。慌てて身を起こし、わたしはその動く影を凝視した。全身の鳥肌が立って、寒気がする。しかし、飼いならされていても一応は衰えていないらしいこの妖精の目が、暗闇の中でもその影の正体を見破ってくれた。グリヨットだ。わたしは飛び起きて硝子張りの壁へと近寄った。すると、グリヨットも駆け寄ってきた。壁にべったりと張り付くと、額をつける仕草をした。何となく意図が伝わり、わたしも同じように額をつけてみると、その声は耳ではなく額から伝わってきた。

『こんばんは、マドレーヌ』

 それは、良血の世界ではとっくの昔に禁じられてしまった妖精の話術の一つだった。

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