3.疑わしい人

 ボックス席から飛び出すと、そのままわたしはサヴァランが出てきただろう場所を目指した。外にも係員はいたし、一人で彷徨うわたしの姿に当然ながら不審な眼差しを向けてきたけれど、話しかけられる前にわたしは移動した。こういう時は堂々としていた方がいい。それは、度重なる脱走の最中で身につけた術でもある。期待通り、あまりに当然のように歩くわたしに対し、係員は結局話しかけてこなかった。安心してわたしは玄関ホールを目指した。勘で動くしかないけれど、この建物が左右対称ならば、そちらから近くまで移動できるはず。

 しかし、サヴァランと鉢合わせをするのは非常にまずい。どきどきしながら柱に隠れ、正面階段を覗き込んだ。後ろから肩を掴まれたのは、その時だった。心臓が跳ね上がったものの、すぐに聞こえてきた「マドレーヌ」という囁き声に、すぐに安堵のため息が漏れだした。振り返るとそこにはビスキュイがいた。

「どうしたの?」

 空気を読んだのか彼も声を潜めていた。その聡明さに感謝しつつ、わたしは答える前に、気を取り直して柱の向こうを覗き込んだ。息を潜めながら耳を澄ますと、遠くから足音が聞こえてきた。下の階だと分かり、そっと移動して階段へと近づいていく。ビスキュイもついて来ているが、気にせずに覗き込むと、黒い燕尾服の影が下の階の奥の通路にすっと消えていく姿が一瞬だけ見えた。確証はない。見間違いかもしれない。けれど、サヴァランが着ていたものに似ている気がした。

 靴音に気を付けながら階段を駆け下りて、わたしはその影の消えた通路へと近づいていった。覗き込んでみれば、また同じ影が階段を下りていく姿が見えた。どうやら一本道らしい。ついて行けばいずれ追いつけるだろう。歩みだすと、さすがに見過ごせなかったのかビスキュイがわたしの手を掴んできた。

「マドレーヌったら」

 その声がやけに大きく聞こえ、わたしは慌てて振り返った。

「静かに……聞こえちゃう」

 すると、ビスキュイはあわてたように口を塞ぎつつ、わたしの真横にやってきた。彼に手を掴まれたまま歩き、わたしは囁き声で言った。

「サヴァラン様を追いかけているの」

「それは分かるけれど……一体どうして?」

 問い返されて、わたしは一瞬だけ答えに詰まった。しかし、ありのままに言うしかない。そう判断し、息を飲みながら答えた。

「ビスキュイはさ、アンゼリカがサヴァラン様の妖精だったことって知っている?」

「……うん、話だけなら」

「じゃあ、どうしてアンゼリカがグリヨットたちと一緒にいたのか……その経緯は?」

 ビスキュイは戸惑いつつ、首を振った。

「そこまでは聞いていなかったかも」

 彼の言葉に頷くと、わたしは小さく覚悟を決めた。この話を口に出すのは同じ妖精として辛いものがある。だが、知らないのなら教えないと。あの人間の危険性を。

「アンゼリカはね、彼の愛していた蜘蛛の妖精の生餌にされそうになったの。だから、死にたくなくて逃げたんだって。その時に蜘蛛を殺してしまったから、報復を恐れていたの。実際に、サヴァラン様はずっとアンゼリカのことを捜していたみたいなの。蝶なんて、愛していないはずなのに……」

 わたしの言葉にビスキュイは目を丸くしていた。あまりに衝撃的な話だったからだろう。彼は左胸を手で抑えると、何度か深呼吸をしてから言葉を絞り出してきた。

「……それじゃあ、アンゼリカを殺したのも?」

 その言葉にわたしは首を振った。

「それは分からない。でも、疑わしいって思わない?」

 そう言って、わたしはサヴァランの消えていった階段を見下ろした。一本道はさらに地下へ地下へと続いている。ここから先がどこに繋がっているのかは、見てみないと分からない。恐らく育ちの良い妖精ならば立ち入らないだろう場所だが、進まないという選択はもはやなかった。

「疑わしい人が、怪しい行動をしている。わたしには、見過ごすことなんて出来ないよ」

 わたしの言葉にビスキュイは息を飲んでから手をぎゅっと握ってきた。

「やめようって言っても、君は納得しないんだね?」

 彼の問いに、わたしは頷いた。ここでビスキュイが止めるなら、手を振り払って一人で行くだろう。どんなに危険だろうと、何も見なかったふりをして呑気に過ごし続けることなんて出来なかった。そんなわたしの想いがどれだけビスキュイに伝わったかは分からない。ただ、彼もまた頷いて、一緒に階段を見下ろした。

「分かった。それじゃあ、せめて僕も一緒に行かせて。僕も真実を知りたい。アンゼリカを誰が殺したのか、その手掛かりがありそうなら、知らなかったふりなんて出来ない」

「ビスキュイ……!」

 彼の言葉にわたしは少し嬉しくなった。一人きりよりもやっぱり仲間はいた方がいい。わたし達は手を繋いだまま、深呼吸をして、そのまま階段を下りていった。足音を立てないように気を付けて、一歩また一歩と降りていく。光の乏しい世界だったけれど、夜目が利くわたしとビスキュイには問題ない。この階段が、その先に続く道が、真相へと続いていることを祈りながら、わたし達は歩き続けた。

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