2.王立歌劇場

 王立歌劇場は外観だけならば知っていた。フィナンシエのお屋敷からアマンディーヌのお屋敷へ、あるいは愛好会の日にヴェルジョワーズのお屋敷へと向かう時に目にすることが多いからだ。王侯貴族が歌劇を楽しむために建てられたその建物は、今からちょうど二百年前に建てられたらしい。二百年と言えば、蝶の王国が滅んだ頃と時期が被る。蝶たちの何千年にもわたる世界が築かれたその頃、太陽の国の人間たちはこのように美しい建物を建てる余裕すらあったのだと思うと、少しだけ切ない気持ちになる。しかし、その切なさすらどうでも良くなるくらい、間近で見る歌劇場はあまりに美しかった。

 フィナンシエがかつて教えてくれた話でもあるのだが、この歌劇場は羽化したばかりの最後の女王ミルティーユを招いたこともあるらしい。母を失い、祖国が滅び、これからは人間たちの庇護の下で暮らさねばならなくなった彼女を気遣った貴族がいたという。その人物の要望もあってこの建物は妖精たちを惹き付ける美も意識するようになったらしい。実際に蝶の王国へと攻め入り、開拓していった者たちの証言をもとに、かつての王国の栄光を彷彿とさせる芸術を取り入れているのだ。

 そのためだろう。劇場の内外には妖精たちの像が多く建てられていた。二百年の間に追加されたりもしたという妖精像は、長い間、ここを愛する人々に親しまれてきた。初めて人間たちの歌劇を観た妖精であるミルティーユはもちろん、その当時、劇の世界を作り上げる人々に、妖精たちの芸術の世界を教えたという著名な妖精たちもまた、それぞれ像が作られ、舞台の聖人のように崇められている。

 そう、ここは人間と妖精の調和の場所でもあった。

 フィナンシエに手を引かれて玄関ホールへと入ると、正面階段の近くにアマンディーヌとビスキュイの姿を見つけた。ヴェルジョワーズとシュセットも一緒だ。全員、いつも目にする時以上に着飾っていたが、この場所において目立ちすぎるということもなさそうだった。

 フィナンシエに連れられて近づいていくと、先にヴェルジョワーズがこちらに気づいた。笑顔で手を振る彼女に駆け寄ると、アマンディーヌもまた振り返る。その美しさに、フィナンシエの足が一瞬だけ止まってしまった。手をぎゅっと握りながら、わたしは無言で祈った。どうか、今宵ばかりは彼に勇気がもたらされますように、と。

「マドレーヌ、綺麗だわ。よくお似合いよ。いつもよりずっとお姉さんに見えるわ」

 ヴェルジョワーズが明るい声でそう言って、横にいるシュセットを見つめた。

「ねえ、シュセット。あなたもそう思わない?」

 シュセットは、シュセットだ。前回会ったのは、三週間ほど前の愛好会の時。いつ会っても彼女は変わらない。生来受け継いだペシュの血は年月などでは薄まらないらしく、相変わらずつれない態度でヴェルジョワーズに接していた。

 しかし、久しぶりに目にするシュセットのつれなささえも、気品と計算を感じてしまう。シュセットだって望まれて生まれてきた存在なのだ。つんとした態度にも、人間にとって好ましい絶妙さがあるのだと、今ならわたしにも分かった。そんなシュセットを見つめていると、フィナンシエの手が離れ、代わりに違う者の手がわたしの手をぎゅっと握ってきた。ビスキュイだ。

「マドレーヌ、本当によく似合っているよ」

 そのはにかんだ様子に、わたしもまた何故だか照れくさくなってしまった。

「ビスキュイも、とても素敵だよ」

 手を握りながらわたしは言った。単なる御世辞ではなく、今宵のビスキュイはいつも以上に愛らしく、美しかった。蝶の男性は女性同様、老年になってもなお美しいものしかいないと言われているけれど、その美の種類はいくつかあった。ババがそうだったように逞しさを有した美というものもあるけれど、ビスキュイは明らかにその真逆の存在だった。繊細な美を持ったまま、彼は成長していくのだろう。その髪の色がどんどん雪のようになっていくにつれ、少年特有の天使のような愛らしさは青年特有の美へと変わっていくのだろう。

 ビスキュイはまさにその最中にいる。そして、その特有の美を際立たせるような黒の燕尾服は、フィナンシエの着ているものとまた違う印象があった。妖精用だからだろうか。とにかく愛好会では見ないその姿に、しばらくの間、見惚れてしまった。だが、しばし黙って見つめ合っていると、シュセットのやや冷めた声がわたし達の間に割り込んできた。

「イチャイチャするのは席についてからにしなさい」

 腰に手を当て、彼女は言う。菫色の目を光らせて、わたし達にそっと顔を近づけてきた。

「劇の間はじっとしているのよ。ここは色んなお客さまがいるのだからね。中には妖精のことをあまり好いておられない方もいらっしゃるわ。今夜ばかりはそういう妖精嫌い達を見返すくらいお利口でいないと許さないから。とにかく、ヴェルジョワーズ様に恥をかかせることだけはやめてよね」

 ヴェルジョワーズたちには聞こえぬほどの小声だったが、とても厳しい口調だ。わたしもビスキュイも二人して肩を竦めてしまった。

「言われなくたってしないよ」

 負け惜しみのようにビスキュイが言い、わたしもまた苦笑しながら彼女に言った。

「わたし達、劇を観に来たのよ」

 しかし、シュセットは何を疑っているのだろう、「どうだか」と言いながら腕を組んでしまった。その態度の一部始終を見ていたのか、ヴェルジョワーズもまた苦笑して、すぐにフィナンシエたちに向かって言った。

「あなた達の席は二階のボックス席よ。いい、二階よ。間違えないでね。こっちの階段を登って行って。その先で案内係がいるから、分からない時は従ってちょうだい」

 彼女に言われ、フィナンシエたちはさっそく階段を登り始めた。わたしもまたビスキュイと共に慌ててそれに従った。シュセットに一声かけてから去ろうと思ったけれど、どうやら彼女の方は望んでいないようで、ぷいと余所を向いてしまっていた。彼女の中に濃く流れるペシュの血のつれなさはどうやら同じ妖精相手にも発揮されるらしい。

 さて、気を取り直して階段を登りながら、わたしは劇場全体を包み込む美の世界を堪能した。ここに招かれたミルティーユは、どんな感想を抱いたのだろう。足元から遥か上の天井まで、華やかさでいっぱいだった。一方、そこから案内された先のボックス席は、一変して落ち着いた雰囲気に包まれていた。外の美が賑やかなものだとしたら、この場所は静かな美しさをまとっている。まるで家のような安らぎがここに籠っていた。

 フィナンシエに促されて、わたしはボックス席から辺りを見渡した。ちらほらと席についている者たちの姿が見える。向かいのボックス席で楽しそうに並んでいる同じ年頃の妖精たちの姿も見えたし、主人を前に座らせて後ろで静かに控えている大人の妖精の姿も見えた。そうか思えば、貴婦人や紳士と恋人のように並ぶ妖精の姿も見える。勿論、妖精のいない人もいる。妖精嫌いなのか、たまたま連れていないだけなのか。後者が大半だといいのだけれど。

「マドレーヌ、ビスキュイ。前が良かったら座ってもいいのよ?」

 アマンディーヌに言われ、わたしは慌てて振り返った。ビスキュイはどうやらどちらでもいいらしい。そこで、わたしは小さく首を振って、二人の主人に席を譲った。命じられないのであれば、わたしは後ろがよかった。好奇心にかられて覗いてみたものの、今も人目が気になって仕方ない。ずっと人目を気にし続けるとなると、劇に集中できそうにない。そんなわたしの様子にビスキュイも察したのか、彼もまたアマンディーヌに言った。

「僕もマドレーヌと一緒に後ろに座ります」

 ビスキュイの明るい声に、二人の主人は納得したように頷き、共に前へと座った。後ろから二人の背中を眺めていると、もうすでに夫婦であるかのようにお似合いだった。示し合わせたような服装の彩りは、わたしとビスキュイのそれにも似ている。そうとなれば、我が愛すべき主人には勇気を出してもらいたいところなのだけれど。そんな事を思って一人微笑みながら、わたしは後ろから客席を見渡した。身なりの良い人ばかりだ。身なりのいい妖精ばかりだ。キュイエールはわたしを褒めてくれたけれど、わたしよりもずっと着飾って、美しい妖精だらけだった。その上、今宵の舞台にも呆れるほど美しい人間や妖精をたくさん見る事が出来るそうだ。

 演目についてもすでに聞かされている。人と妖精たちの登場するおとぎ話だった。歌と踊りを人々が楽しむために生まれた妖精たちと、その妖精たちに負けないくらい幼い頃から稽古を重ねてきた人間たちが歌い、踊る。歌劇というものの存在こそは知っていたけれど、実際に観るのは初めてだ。幕が上がる前の空気にそわそわしながら、わたしは楽しみにしていた。

 ところが、ふと向かいのボックス席へと目をやった途端、その楽しみな気持ちが大きく削がれてしまった。

 宵闇色の銀狐。

「サヴァラン様だ……」

 前に座るフィナンシエたちには聞こえないように気を付けたものの、隣に座っていたビスキュイにはこの声も届いてしまった。彼もまた同じ方向を見つめると、すぐにわたしの手をぎゅっと握ってきた。

「大丈夫。こっちには気づいていないみたいだよ」

「──うん」

 そのようだが、彼がいるという事だけで落ち着かなくなってしまった。サヴァラン。彼を意識するなという方が、もはや難しい。アンゼリカを苦しめた人間。蝶をただの餌だと思っている人間。運命の歯車が少しでも違っていたら、他ならぬわたしが彼の娯楽の餌食になっていた。そう思ってしまうと、アンゼリカのことで許せないという気持ちと絶大な恐怖とが入り混じり、混乱してしまう。先ほどからそわそわしていたのは同じだけれど、方向性が全く違う。落ち着かないまま拍手が起こり、沈黙が訪れ、そして演奏が始まった。舞台の前で楽団が明るく華やかな旋律を奏でている。その乱れない演奏に、ビスキュイは早くもサヴァランから興味を失い、舞台を刮目していた。わたしもまた彼に倣い、同じように舞台へと集中した。キュイエールに今宵の感想を言わないと。

 演奏の途中で幕が上がり、舞台装置の仕掛けが作動する。そのからくりに気を取られているうちに現れたのは、今宵の主役の一人である妖精の舞台役者だった。名前はたしかブリオッシュ。歌も踊りも評価の高い、劇場の看板女優でもある。彼女が現れただけで、舞台には魔法がかかった。幻想的な舞台衣装も、神秘的な彼女の姿も、何もかも魔法のようだった。もちろん、美の世界に心を奪われがちな蝶の妖精の心だって簡単に掴んでしまう。そういえば、蝶の王国時代もああして舞台を楽しむ文化はあったらしい。きっと、このように豪奢ではなかったかもしれないけれど、この舞台に立つことになる歌や踊りの妖精たちの先祖は、かつて蝶の女王を称えるため、あるいは蝶の妖精たちにとって大切な祭事のために歌い踊ったという話だ。

 ブリオッシュが歌い出すと、その大昔の景色が少しだけ想像できるような気がしてしまった。出来ればこのまま劇の世界にのめり込みたい。ブリオッシュの歌にはその力があるはずだ。ところが、わたしは再びサヴァランのいる場所をちらりと見てしまっていた。妖精愛好家から嫌われていた彼。アンゼリカを生餌にしようとした彼。肉食妖精を可愛がっていた彼。そんな彼は、どんな思いでブリオッシュを見つめているのだろう。

 劇に集中できないまま時間は過ぎていった。ブリオッシュの歌が終わると、流れるように場面は転換する。ビスキュイはどうやらすっかり心を奪われたようで、目を輝かせながら舞台を見つめていた。わたしもまた、彼と同じ感動を共有したいあまり、集中しようとした。けれど、ちらりと視界に入ったサヴァランの席で、異変が起こったことに気づいてしまい、集中は早くも途切れた。使用人と思しき人物に耳打ちされると、サヴァランは音もなく立ち上がり、何処かへ去っていく。姿を消そうとする彼を見つめていると、わたしは妙にその足取りが気になってしまった。

 どこへ向かうのか。何をしに行くのか。

 ──確認したい。

 わたしもまた席を立った。フィナンシエとアマンディーヌに気づかれないように、忍び足で扉へと向かう。ビスキュイは勿論気づいたし、係員も呼び止めてきた。けれど、わたしは首を振って、そのまま外へと飛び出した。

 サヴァランは反対側にいる。誰かしらに歩みを止められるより前に、わたしはその場所を目指して走り出していた。

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