11.おぞましい記憶
暗闇の中で、わたしはアンゼリカに寄り添い続けた。一度お礼を口にしたら気が楽になったのだろう。彼女は何度も同じように「ありがとう」と繰り返し、ぼろぼろと泣き出してしまった。わたしはそんな彼女の身体を支えながら、耳を澄ましてみた。フロマージュが戻ってくる気配はない。他の人間たちが近寄ってくる足音も聞こえてこない。どうやら、本当に見逃してくれたらしい。その事に内心ホッとしていると、アンゼリカがわたしの腕にしがみついてきた。我に返ってその背中をさすってやると、彼女は泣きながら俯いた。その様子を見つめ、わたしは一つ確信した。判断は間違っていなかった。彼女はやはりサヴァランの元に戻るべきではない。
「ごめんね、マドレーヌ」
呼吸が落ち着いてくると、アンゼリカはそう言った。
「前に言ったわよね。あなたの事を覚えているって。あなたがフィナンシエ様に落札されたあの日、わたしもまたあの会場にいたの。あなたを買いそびれたサヴァラン様はね、希望価格の何倍ものお金を出してわたしを競り落としたの」
わたしはその言葉を黙って聞いていた。全ては運命。抗えないもので、制御もできない。そう思いたいところだ。しかし、わたしがサヴァランに競り落とされずにホッとしていた陰で、わたしの代わりになった妖精がいる。すぐ目の前に。そう考えると、罪悪感はどうしても沸き起こった。
「あなたのせいじゃない」
アンゼリカは言った。わたしの袖をぎゅっと掴みながら。
「それは分かっているつもりなの。あなたのせいじゃない。わたしの運が悪かっただけ。でも、祈り場であなたの顔を見て、名前を聞いた瞬間、わたしはあなたを憎いと思ってしまった」
そして、アンゼリカは嗚咽を漏らしながら、その菫色の目をわたしに向けてきた。
「わたしね、捨てられたわけじゃないの。自分の足で逃げ出したのよ。サヴァラン様のお屋敷から泣きながら逃げて、シトロンたちに保護されたの。誰もが驚いていたわ。だって、その時のわたし、服も着ていなくて返り血で汚れていたから」
「返り血……?」
思わぬ単語にわたしはぎょっとしてしまった。一体、何があったというのだろう。深く聞くべきかどうか迷っていると、アンゼリカの方から教えてくれた。
「わたしね、愛玩用じゃなかったの」
アンゼリカは泣きながら言った。
「サヴァラン様は生餌用にわたしを買ったの」
「生餌……」
それは、わたしにとって、誇り高い良血蝶々として生まれ育ったわたしにとって、あまりに衝撃的な告白だった。生餌という言葉を知らないわけではない。だが、聞いたことがない。そんな話。高い金額でやり取りされる良血蝶々が生餌用に買われることがあるなんて。しばらく茫然として、じわじわとその意味を理解すると、言葉に出来ない恐怖がこみ上げてきた。わたしはわなわなと震えながら呟いた。
「それって──」
一体、どういうことだろう。アンゼリカは一頻り泣いてから教えてくれた。
「サヴァラン様が本当に愛しているのはね、蝶々ではないの。彼のお屋敷にはとても立派なお部屋があって、そこには美しい蜘蛛の良血妖精が閉じ込められているの。彼女の好物は年頃の良血蝶々なのですって。だから、サヴァラン様はね、愛の証として年に一度の特別な日にとびきり良い血を引いた良血蝶々を彼女に贈っていたの」
それが、アンゼリカだった。いや、他人事ではない。この話は決して他人事ではなかった。本当はわたしだったかもしれない話だ。フィナンシエがあの場にいなかったら、わたしがアンゼリカの身に降りかかった不幸を味わっていたかもしれない。冷や汗が浮かぶ中で、アンゼリカは告白を続けた。
「最初は優しくされていたの。サヴァラン様も紳士的にわたしを扱ってくれた。その上で、彼は言ったの。良血蜘蛛が退屈しているから、時々相手をしてやって欲しいって。孤独で寂しい彼女を癒してやって欲しいって。その時はわたしも気づかなかった。蜘蛛だなんて冗談じゃないって思っていたけれど、実際に会ってみたら彼女は知的で優しかった。優しく扱ってくれたのよ。でも、全部嘘だったの。わたしを安心させて、
そして、アンゼリカは逃げ出した。サヴァランの大事にしていた蜘蛛の妖精を殺して。
「愛する蜘蛛が死んだと分かったら、サヴァラン様は烈火の如くお怒りになったわ。だから、わたしは必死に逃げたの。死に物狂いで屋敷を駆けまわって抜け出して、そうして裸のまま外へ逃げたの。彼は探しているのね。でも、きっとわたしを許しはしない。探しているのは報復のために違いないわ」
必死に声を押し殺し、そして、アンゼリカは何度も言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたのせいじゃないって分かっているの。でも、わたしは今でもあなたを恨んでしまう。あなたがサヴァラン様に買われていたらって。わたしはこんな目に遭わずに済んだはずなのにって。──ごめんなさい」
何度も謝る彼女の声を聞いていると、眩暈がしてきた。けれど、わたしはアンゼリカを抱きしめて、どうにか囁いた。
「謝らないで、アンゼリカ」
震える声でそう言う事しか出来なかった。
「謝らなくていいから」
わたしが悪くないというのなら、アンゼリカだって悪くない。わたしがフィナンシエに愛されたように、アンゼリカにだって善良な人間に愛される権利があったはずだった。それなのに、どうしてそんな目に遭わなくてはいけなかったのだろう。壮絶な逃亡劇の果てに、やっと逃れた先でも追手の影に怯えている。そんな彼女に少し意地悪な態度を取られたくらいで怒るなんてことがわたしには出来なかった。違いすぎる。同じ良血蝶々に生まれたはずなのに、同じ栗色の髪と菫色の目を持って生まれたはずなのに、辿ってきた道があまりに違いすぎた。
太陽の国の法に照らすならば、このような事情があろうとアンゼリカはまだサヴァランの妖精なのだろう。だから探されているし、フロマージュの温情がなければ今頃、彼女は屋敷に戻されていたかもしれない。しかし、それは正しい事なのだろうか。気品ある良血妖精として生まれたならば、人間たちの決まりは絶対のはず。多少の理不尽さこそ感じたことはあっても、心の何処かでそれは前提として成り立っていた。けれど、今のわたしにはどうしても、アンゼリカをサヴァランの元に帰すなんてことは出来なかった。
彼女が帰るべき場所はそこじゃない。わたしの脳裏には赤と青の蝶々の姿が浮かび上がる。
「アンゼリカ」
少しだけ冷静になって、わたしは彼女に囁いた。
「フランボワーズ様が探しているよ。ババも、グリヨットも探している。シトロンがね、すごく心配していたよ。だから、帰ろう。皆のところへ」
泣き続ける彼女の背をさすりながら、わたしは元気づけようと声をかけ続けた。
「歩けないのなら、わたしが負ぶってあげるから」
「マドレーヌ……」
アンゼリカは顔をあげた。仲間たちの名前も口にしたからだろう。その表情からは少しだけ怯えが薄れていた。けれど、そんなわたし達の耳にまたしても足音が聞こえてきた。フロマージュのものとは違う。全く別人の足音だった。まさか他の職員が来てしまったのだろうか。警戒心を掻き立てられ、わたしは慌ててアンゼリカを庇いながらその方向を睨みつけた。だが、その姿が見えるより先に、馴染みのある声は聞こえてきた。
「マドレーヌ様? アンゼリカ様?」
その声と姿に、わたしは呆気にとられてしまった。ヴァニーユだ。人間でなくて安心したが、驚きは隠せなかった。まさか可憐な花の妖精である彼女まで祈り場を離れてうろついているなんて思いもしなかったのだ。わたしの表情からその旨を察したのだろう。ヴァニーユは優しく微笑み、アンゼリカを背負おうとしていたわたしの肩にそっと触れてきた。
「ずいぶんとお探ししましたよ」
その一言で、ようやく肩の力が抜けた。
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