10.お人好しな人間

「アンゼリカ!」

 口を介した声で呼びかけるとアンゼリカはすぐに顔をあげた。そして、わたしの姿を見ると、目を丸くした。すぐに助けを求めるように手を伸ばしてきたので、わたしは慌てて駆け寄った。近づいてみてようやく分かった。足を挫いてしまっているらしい。

「マドレーヌ……あなただったのね」

「大丈夫? 今、皆に伝えるから!」

 そう言って、わたしは彼女を引き寄せながら壁に手を突こうとした。だが、その時だった。目に馴染んだ暗闇を引き裂くような光が視界に入り、わたしはぞっとしてしまった。ランプの明かりだ。こちらに近づいてくる。あまりいい事ではない。だって、妖精ならば不要なはずの光だから。案の定、近づいてきたのは妖精ではなく人間だった。それも、今は絶対に見たくないような制服の人物。さらに近寄ってきて、わたしは気づいた。初めて見る人物ではない。過去にも会ったことのある青年だった。

「おや、君は」

 ランプでこちらを照らしながら呟く彼を、わたしもまた凝視してしまった。見覚えのある制服に、見覚えのある顔。震えながらどうにかアンゼリカを庇い、わたしはその名を口にした。

「フロマージュさん……」

 すると、フロマージュはやや険しい顔になった。

「マドレーヌ。確かマドレーヌだね。良かった。ここに居たのか。今日は保護するべき妖精がたくさんいてね。君もその一人だ。お友達はどうした? ビスキュイも一緒に逃げてしまったのだろう?」

「ビ……ビスキュイは、その……」

 狼狽えるわたしを前に、フロマージュはため息を吐いた。そして、首を振ってこう言った。

「まあいい。じきに見つかるだろう。ともかく、二人とも一緒に来なさい。マドレーヌも、そこにいるアンゼリカも」

「アンゼリカ……?」

 わたしは茫然としてしまった。何故、フロマージュがアンゼリカの名前を知っているのだろう。すぐにアンゼリカの身体がガタガタと震えだしたことに気づいて、わたしは慌てて彼女を庇った。

「フロマージュさん。お願いです。今回は見なかったことにしてください。わたし、自分で帰ります。この子も一緒に帰るのでどうか……」

「その子も一緒に、か。では、その子もフィナンシエさんの妖精だって言いたいのかい?」

 問われるままにわたしは頷いた。この嘘は見抜かれている。分かり切っていたことだけれど、ここで見放すわけにはいかなかった。だが、フロマージュは首を振った。

「申し訳ないが君の嘘は通用しないよ、マドレーヌ。アンゼリカ──その子も届けが出ているんだ」

「届けが……?」

 問い返すわたしの後ろで、アンゼリカが小さく悲鳴を上げた。怯え方が尋常でない。その姿にわたしは危機感を覚えた。彼女は捨てられたのではない。逃げ出したのだ。そして、今も帰る事を拒んでいる。直感で理解した傍から、フロマージュは言った。

「アンゼリカ。足を怪我しているようだね。その怪我は放っておくと悪くなるかもしれない。治療もちゃんとしてあげるから、こっちにおいで。一緒に帰ろう──」

 そして、彼の口からその事実は告げられた。

「サヴァランさんのもとへ」

 その名を聞いた瞬間、わたしもまた鳥肌が立った。同時に、何故、アンゼリカがここまで怯えているのかを何となく理解した。サヴァラン。その名前を心の中で反芻し、わたしは慌ててフロマージュに訴えた。

「お願い!」

 必死に声を絞りながら、わたしは訴えた。

「お願いです。どうか見なかったことにして……。保護するにしても、せめてサヴァラン様には内緒にして。アンゼリカも、わたしと一緒にフィナンシエ様の元へ」

 訴えながら泣きそうになってしまった。アンゼリカはすでに泣いている。あまりの怯えようにフロマージュも異変を感じたのだろう。戸惑った表情で、彼はわたしとアンゼリカを見比べていた。そこへ、遠くから声が聞こえてきた。

「おーい、フロマージュ! そっちに何かいたか?」

 仲間のようだ。見つかればいよいよ逃げ出すのは困難だ。だが、捕まったとしても、せめてぎりぎりまでアンゼリカを庇わないと。これだけ怯えているのだ。それだけの理由があるに違いないから。しかし、わたしの覚悟とは裏腹に、フロマージュはくるりと振り返ると、仲間に向かって大声で返事をした。

「野良猫だった! 今戻るからそっちで待っていてくれ!」

 フロマージュの言葉に、わたしは脱力してしまった。何が起こったかすぐには分からず、じっと彼の背中を見つめていた。彼は振り返ることもなく、わたし達に小声で言った。

「気を付けるんだよ」

 そして、そのままあっさりと立ち去ってしまった。残されたわたし達はふたりして座り込んだまま、しばらく動けなくなってしまった。けれど、もう誰も来ないと分かるとわたしの震えは次第に止まっていった。だが、アンゼリカの震えはなかなか止まらない。暗闇の中で、わたしはせめて震えを受け止めようとそっとアンゼリカを抱きしめた。抱擁だけで震えはなかなか止まらない。けれど、わたしの抱擁をアンゼリカは拒んだりしなかった。沈黙の中、アンゼリカの嗚咽だけが聞こえてくる中で、わたし達はしばらく抱き合っていた。そうして、ようやく彼女の心は落ち着きを取り戻した。その身体の震えが少しだけ収まると、アンゼリカはそっとわたしに囁いてきた。

「ありがとう」

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