3.呼び覚まされた野性

 殴られるとは思っていなかったのだろう。ヴァニーユは手を引っ込めると、わたしの顔をまじまじと見つめてきた。驚いていたようだったが、次第にその表情には怒りが浮かび上がってくる。捕食者の怒りをじかに感じるのは恐ろしいとしか言いようがない。しかし、ここで諦めれば、わたしとビスキュイの何もかも終わってしまう。ヴァニーユはわたしを睨みつけながら言った。

「まさか歯向かうなんて。従順ないい子なら楽に死なせてあげたのに、とんでもない真似をしてくれたわね、マドレーヌ」

 恐ろしい声でヴァニーユはそう言った。頼れるのはビスキュイが持っていた木の棒だけ。もしもここで負けたならば、わたしもビスキュイも未来はないだろう。けれど、後戻りはできない。いや、端から命乞いをしたところで無駄だ。死を回避することは出来ない。せいぜい楽な死に方を選ばせて貰えるくらいだろう。そうはいかない。わたしだってここで死にたくはなかった。

 今にも倒れてしまいそうだったけれど、必死に堪えて何度も何度も呼吸を整えた。わたしだって女王の末裔だ。フランボワーズに流れているものと同じ血が流れているはず。一角獣の先祖だっていたはずだし、母系や父系にこだわらなければペシュもまた先祖の一人であるはず。わたしにだって、戦うことは出来るはず。だから、恐れることはない。

 近づこうとするヴァニーユを、わたしは再び殴ろうとした。ビスキュイを渡すわけにはいかない。無論、自分の命だって捧げるつもりは毛頭なかった。全身全霊の怒りを込めて、わたしはヴァニーユを睨みつける。しかし、ヴァニーユはそんなわたしを見つめ、うっとりとしたような笑みを浮かべた。

「ああ、その目……」

 そう言って、彼女は色気を含むため息を漏らす。

「アンゼリカを思い出すわ。同じ色の目が美しかった。菫色の目は高貴の色。私の先祖たちにとって憧れの色でもあった。その意味が今ではよく理解できる。あなた達は美味しすぎた。いつも美味しい蜜を食べているからでしょうね。美味しいって罪なの。美味しく生まれてしまったせいで人間に食べ尽くされて、絶滅した生き物だっているくらいだもの。……だから、これも仕方のない事」

「来ないで!」

 怒鳴りながらわたしは木の棒を振り回した。しかし、ヴァニーユには当たらない。余裕をもって笑いかけてくるものの、彼女もまた慎重だった。決して、わたしの事を甘く見ているわけではないのだろう。慎重かつ冷静に、狩りを楽しんでいる。話し合いは無駄だ。ビスキュイを担いで逃げる力だってわたしにはない。ならば、どうすればいいのかは限られる。ヴァニーユの戦意を奪うか、意識を奪うか、或いは──。考えかけた先の光景に、わたしは息を飲んだ。

 人間に愛されるために生まれてきたわたしにとって、生きるか死ぬかの世界は遠いものだった。いくら先祖たちが死力を尽くして国を守った歴史があったと聞かされても、それはおとぎ話のようなもの。これまでわたしは生きるために誰かの命を奪うことなんて考えたこともなかった。しかし、そうは言っていられない。生き残りたいならば、相手の命を奪う覚悟だって必要だ。その後に何が待ち受けているかなんて、今は考える余裕すらなかった。

「これは警告だよ!」

 精一杯の脅しを込めて、わたしはヴァニーユに告げた。

「血を見たくなかったら、わたし達の事は諦めて。でなければ、わたしも本気であなたを襲う。その白くて綺麗な肌を血の色で染めてやる!」

 しかし、この脅しはやっぱりヴァニーユに通用しなかった。彼女は面白がるように笑みを浮かべ、こちらににじり寄ってきた。

「あらまあ、マドレーヌ。その血は一体、誰の血かしら」

 ちらりと見せて来るその歯が、やけに鋭いものに感じてしまい、気後れした。しかし、すぐに自分を奮い立たせて、わたしは棒を構えた。捕まれば最後。負ければ最後。せめて最後まで、武器を手放してはならない。諦めるとすれば、息の根を止められた後。わたしの魂がこの身体から抜け落ちて、どうあがいても戻らなくなってからだ。それまでは、希望を捨ててはいけない。全ての迷いと恐怖を払いのけるべく、わたしは叫んだ。

「覚悟!」

 そして、フランボワーズの姿を必死に思い出しながら、ヴァニーユに飛び掛かった。持っているのはただの木の棒。戦いの術すら知らない。そんな状況であっても、不思議と絶望が薄かったのは、必死だったからなのかもしれない。それでも、現実は残酷だった。思い描いたように身体は動かなかったし、願いもむなしくヴァニーユは力強かった。自分たちに近づかせないようにするのがやっとで、それすらも時間と共に厳しくなっていく。このままでは、二人まとめて食べられてしまう。それでも、諦めるわけにはいかなかった。

「覚悟するのはそっちよ、マドレーヌ!」

 ヴァニーユの恐ろしい声が響く。宝石のような赤い目を光らせながら、彼女は迫ってきた。そして、激しい力で掴み上げられたかと思うと、物凄い力で投げ飛ばされてしまった。成す術がなかった。壁に叩きつけられることが分かっていても、受け身を取る事すら出来なかった。この世界は、甘くはない。世間知らずのただの愛玩妖精が、戦う事なんて無謀だったのだ。それでも、わたしは諦めきれなかった。全身の痛みに震えながら、惨めにも地面に這いつくばりながら、気持ちを必死に奮い立たせた。

 身体が痛い。口の中で血の味がする。それでも、わたしはまだ武器を手放していない。菫色の目に力を込めて、わたしはヴァニーユを睨みつけた。勝敗はとっくに決まったと思っているのだろう。彼女はわたしになど目もくれず、倒れたまま意識の回復しないビスキュイに近づいていた。白い手を伸ばし、触れようとしている。その光景が目に飛び込んだ瞬間、心臓が強く脈打った。

「ビスキュイに……触るな!」

 再び武器を握り締め、わたしは立ち上がった。勢い任せにヴァニーユへと突進し、その先は──頭の中も視界も真っ白になった。無我夢中だった。何も考えられなかった。ただ木の棒を構え、前へ、前へと突き進んでいった。そして、鈍く重たい手ごたえが、わたしの腕に伝わってきた。

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