2.二人まとめて

 視界が霞み、周囲の音が遠ざかっていく。酷い力で首を絞めつけられ、苦しさのあまり息が詰まりそうだった。そんな状況で、わたしは必死に視線でビスキュイに訴えかけていた。助けて欲しかったのではない。無事でいて欲しかった。今はわたしのことなどに構わずに、逃げて欲しい。この状況がどんなに恐ろしくても尚、目の前でビスキュイが痛めつけられることの方が恐ろしかったのだ。

 しかし、声が出せないがために、その思いを言葉で伝えることが出来なかった。そのせいなのか、はたまた彼自身の想いのせいか、ビスキュイは逃げたりしなかった。わたしと同じ菫色の目に力を込めて、ヴァニーユを怒鳴りつけていた。

「マドレーヌを放せ!」

 勇ましく吠えるも、声はやっぱり愛らしい。わたし達の遠い先祖にも一角獣はいただろう。しかし、その血はだいぶ薄まってしまっている。人間に愛されることだけを目的に生み出されたのがわたし達だ。同じ祖先を持つとはいえ、フランボワーズのように戦う事なんて、わたし達には無謀でしかない。それでも、ビスキュイは逃げなかった。周囲に落ちていた頼りない棒切れを拾うと、それを構えてヴァニーユを睨みつけた。

 だが、ヴァニーユの狙いはそこにあったのだろう。挑発するように彼女はビスキュイに何かを言った。何と言ったのだろう。聞き取れない。頭から血の気が引いていき、ビスキュイの返答も、ヴァニーユの笑い声も、どこか遠い世界のことのように思えてならない。そうこうしているうちに、ビスキュイが駆けだした。ヴァニーユはわたしの身体をあっさりと手放した。逃げるなら今だ。その事実だけが頭の中に浮かび上がる。しかし、それだけだった。せっかく分かっていても、行動に移せない。冷たい地面に頬を付けたまま、わたしは立ち上がれないまま咳き込んでいた。

 全身が痛い。首を絞められた衝撃と、地面にたたきつけられた衝撃で、身体の自由がきかなかった。

 ──ビスキュイ……。

 正面から戦って勝てる相手ではない。それでも、ビスキュイは木の棒を片手に果敢に挑んでいた。止められない。声が出たとしても、今のビスキュイを止めることは出来なかったかもしれない。無力感でいっぱいだった。せめて体がすぐに動けば、戦いを阻んで一緒に逃げられただろうに。

「そのまま逃げればいいのに、哀れなものね」

 再びこの耳が捕らえた音は、冷たいヴァニーユの声だった。勇ましい声と共に突っ込んでくるビスキュイの攻撃を華麗にかわし、逃げ道を塞ぐ。ビスキュイはよろけつつも、わたしの元へと近づいてきた。

「マドレーヌ、大丈夫?」

 優しいその声にどうにか頷き、力を振り絞った。彼の声に力を貰ったお陰だろう。ふらつきつつも立つことは出来た。痛みは引かないが、傷は浅い。涙目になりながら、わたしは逃げ道を見つめた。ヴァニーユはしっかりと退路を塞いでいる。振出しに戻ってしまったらしい。

「ビスキュイ……ごめん……」

「いいんだ。それよりも、今度は一緒に──」

 ビスキュイが言いかけたその時、ヴァニーユが急に迫ってきた。突然の動きに、わたし達は途端に焦ってしまった。ただただ避けるためだけに散り散りに逃れ、バランスを崩して再び転んでしまった。ビスキュイも、わたしも、無様なものだった。ヴァニーユはそんなわたし達を嘲笑いつつ襲い掛かってくる。今度の狙いも、わたしの方だった。

 同じ轍を踏むわけにはいかない。今度は捕まらないように必死に逃れ、わたしは懸命に逃げ道を目指した。ビスキュイはそんなわたしを援護しようとヴァニーユに挑んでいた。

「ビスキュイ……ビスキュイ……」

 何度も名前を呼びながら、わたしは這いつくばってヴァニーユから逃れようとしていた。冷静ささえあれば、きちんと呼びかけることが出来ただろう。攻撃せずに、一緒に逃げようと。けれど、この場を制していたのは間違いなくヴァニーユで、わたし達は二人まとめて彼女の手のひらの上で踊らされていたのだ。お陰でわたしは彼の名を虚しく呼び続けることしか出来なかったし、ビスキュイの方もまた愚直にも挑み続けることしか出来なかった。

 ヴァニーユが行動を変えたのは、突然の事だった。あんなにわたしだけを狙っていたのに、突然ビスキュイの攻撃を受け止め、そのまま彼を捕まえてしまったのだ。

「あっ──うぐぐ……」

 悲痛な声が聞こえ、わたしは途端に寒気を感じた。見れば、ヴァニーユはビスキュイの首を掴み、そのまま壁際へと抑え込んでしまっていた。さっき、わたしにしたのと同じ攻撃だろう。激しい力がビスキュイの首を今にもへし折ろうとしていた。

「あ、ああっ、ビスキュイ!」

 ふらふらと立ち上がり、わたしは叫んだ。

「駄目……お願い、放して!」

 飛びつくも、ヴァニーユは全く動じない。引き剥がそうとしても、信じられないほど力は強かった。お願いなんて聞いてくれるはずもない。むしろ、わたしがしがみつけばしがみつくほど、ヴァニーユは面白がってビスキュイの首をさらに締め上げた。苦しそうな彼の声に、わたしは堪らなくなって泣き叫んでしまった。

「やめて! だ、誰か……誰かっ!」

 助けを求めようにも、暗い路地裏で悲鳴はむなしく響くだけ。このままでは、本当にビスキュイが殺されてしまう。そこへ止めを刺すようにヴァニーユは笑いながら言ったのだった。

「安心なさいな、マドレーヌ。すぐに後を追わせてあげるわ」

 そう言って、ヴァニーユはさらに力を込めた。途端にビスキュイが目を白黒させる。

「やめて!」

 叫んだところで大した力にもならない。とうとうビスキュイは力を失い、動かなくなってしまった。ヴァニーユが手を放すと、ビスキュイはそのまま地面に崩れ落ちた。ぴくりとも動かない。だが、一応は生きている。何度も何度もその鼓動と呼吸を確認し、わたしもまた泣き崩れた。

 成す術ない。このままでは、二人一緒にヴァニーユに食われるだけだ。絶望感でどうにかなってしまいそうな中、ことりと音を立てて地面に落ちたものが目に入った。ビスキュイが先ほどまで武器にしていた、木の棒だ。

「どっちから食べるか迷っていたけれど、もう決めた」

 ヴァニーユの言葉が頭上で響く。

「ビスキュイからにしましょう。恋人の悲鳴が心地よかったから。愛する人を目の前で食べられる絶望を味わってもらいましょう。マドレーヌ、あなたを食べるのはその後よ。温かくて安全な我が家でゆっくりいただきましょうか」

 そう言って、ヴァニーユは気を失っているビスキュイへと手を伸ばす。わたしが抵抗できないと、そう思い込んでの事だろう。だが、舐めて貰っては困る。木の棒をすぐさま広い、わたしはその手を激しく殴打した。

「ビスキュイに触らないで!」

 それは懇願などではない。正真正銘、最後の抵抗だった。

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