13.とても恐ろしい報せ
ビスキュイと覚悟を決めて屋敷に戻ってみれば、フィナンシエもアマンディーヌもすっかり呆れ果てていた。二人の困り果てた表情と、お説教を聞いていると、わたしはふとサヴァランの意地悪そうな表情を思い出してしまった。彼に限らず、妖精愛好家の人間の中には希少価値のある自分の妖精を逃がしたり、盗まれたりすることを恐れ、籠に入れたり幽閉したりして飼う者はいるらしい。愛好会でいつも会う友人の中にだって、わたしやビスキュイ以上に狭苦しい生活を強いられている妖精だっている。そんな話を聞くたびに、わたしはフィナンシエとアマンディーヌこそが正しい主人の在り方なのだと強く思ってきたものだった。だが、二人の心苦しそうな表情を見ていると、もしかしたらそうではなく、非情な主人の方が人間たちにとっては正しい姿なのではないかと思ってしまった。
もしかしたら、これに懲りて二人は、わたしとビスキュイへの対応を変えてしまうかもしれない。覚悟の上だとは思っていたはずだけれど、具体的にその可能性が見えてくるとやはり怖くなってしまった。けれど、幸いと言っていいのか、この二人はわたしが想像している以上に若く、甘かった。わたし達の脱走を咎めはしたが、傷つけることを恐れているらしい。そんな態度をとられてしまうと、わたしもビスキュイも良心というべきものが痛んだ。
わたし達は、どうしたらいいのだろう。フィナンシエの屋敷へと帰る馬車に揺られながら、わたしは静かに考えていた。叱られることへの気まずさと戦いながら祈り場からアマンディーヌの屋敷へと帰る道すがら、ビスキュイとも二人きりで話したことではあった。そもそも、この度の騒動で曖昧になってしまったが、わたし達が祈り場へ向かったのは、自分たちの気持ちをはっきりさせたかったという狙いもあった。演説は聞けずじまいだったけれど、アンゼリカを助けて、その心の傷と触れ合って、その上で野良妖精たちのアンゼリカへの温かな対応を目にすると、やはりあの集団こそがわたし達のいるべき場所なのではないかと思ってしまった。
それは真実なのか、錯覚なのか。妖精の先祖は妖精だけで暮らしていた。しかし、わたし達は良血妖精だ。人間の都合で生まれ、二百年も代重ねが続いて、しまいには翅すら失ってしまった。わたしがいるべき場所はどちらなのだろう。同じ悩みはビスキュイも抱えていた。結局、わたし達は結論を出せないままだった。
馬車は静かに進む。向かい合って座るフィナンシエも無言だった。言うべき説教はアマンディーヌの屋敷で済ませてしまったということだろう。しかし、怒っているわけではないらしい。彼は新しい話題を探しているようで、何度か馬車の外のとりとめもない景色に注目しては、わたしに軽く話しかけてきた。その歩み寄りが、却って罪悪感を掻き立てられた。彼はこんなに優しくしてくれるのに、どうしてわたしはグリヨットたちと生きる未来を考えてしまうのだろう。
優しかったのはフィナンシエだけではない。屋敷で待っていたキュイエールも、今宵は優しかった。優しいのはいつもの事だが、今宵の優しさは何かが違う。腫れ物に触れるような、と表現するのが正しいかもしれない。恐らく、アマンディーヌの屋敷での悪行は伝わっているのだ。しかし、敢えてその事には触れずに、キュイエールはわたしに接してきた。人間たちとの暮らしは幸せなはずだ。わたしは良血妖精として生まれて、ここにいるのだから。しかし、何もかも知らなかったふりをすることはもう出来なかった。わたしがこうして幸せに暮らしている間に、わたしの代わりに買い取られていったアンゼリカは酷い目に遭い、命からがら逃げだした。そして今も、名目上は正式な主人のままであるサヴァランに捜されている。
そうだ。サヴァランだ。
帰宅後の諸事を終えて一息つくと、わたしは急にその結論に至った。ずっともやもやしていたのは彼の事実を知ってしまったからでもあるだろう。この事を黙っていることはとても出来なかった。馬鹿正直に今日起きた事を話すわけにもいかないが、そうであっても、サヴァランの真の姿をフィナンシエに少しは知ってもらいたかったのだ。そこで、わたしは勇気を出して、自らフィナンシエの元へと向かったのだった。
「フィナンシエ様……お話があります」
すると、テラスで一服していたフィナンシエはわたしを振り返るなり言った。
「ちょうどよかった。私からも話がある」
「え……」
少し驚いて訊ね返すと、フィナンシエは神妙な表情で頷いた。
「だが、まずはそっちの話から聞かせてもらおうか」
彼に促されて、わたしは恐る恐る頷いた。信頼のおける主人ではあるが、さすがにアンゼリカの居場所を悟られるのは怖い。慎重に言葉を選びながら話さないと。
「サヴァラン様の事です」
息を飲みながら、わたしは語った。その名が飛び出したことは意外だったのだろう。フィナンシエは怪訝そうな表情でわたしを窺ってきた。
「あまり大きな声で申せない事ですが、サヴァラン様に関して恐ろしい話を耳にしたのです」
「恐ろしい話?」
フィナンシエは問い返してくる。その表情から察するに、恐らくサヴァランのあの話は知らないのだろう。アンゼリカの表情を思い出して苦い思いをしながらも、わたしはこう言った。
「サヴァラン様が度々オークションに出席なさる理由をフィナンシエ様はご存知でしょうか。噂によれば彼は蝶など愛していないそうです。それにも関わらず、彼は蝶の妖精を毎年競り落とし、早死にさせてしまう。何故だかお分かりですか」
フィナンシエはきょとんとしていた。そんな彼に縋りつくように、わたしは訴えた。
「フィナンシエ様、わたし、とんでもない話を聞いてしまったのです。サヴァラン様がわたしを求めたその理由は、愛するためではなかったのです。彼が真に愛していたのは蝶ではなく蜘蛛。その蜘蛛の生餌にするために、わたしを買おうとしていたのです」
口に出して、言葉にしてみると、あまりのおぞましさに震えてしまった。しかし、アンゼリカが受けた仕打ちが本当ならば、これもまた事実なのだ。あの場にフィナンシエがいなかったら、逃げ出していたのはわたしだった。いや、ひょっとしたらアンゼリカのように逃げ出せずに食べられていたかもしれない。そう思うとあまりに怖くて吐き気がした。
「生餌……」
衝撃を受けたのはフィナンシエも同じだったらしい。茫然としたまま、彼はわたしを見つめていた。そんな彼に縋りついたまま、わたしは訴え続けた。
「フィナンシエ様。あの日、わたしの代わりにサヴァラン様に買われた妖精がいたはずです。その妖精は本当に愛されているのでしょうか」
問いかけるわたしの声に、フィナンシエは我に返った。わたしの両肩を抱くと、視線を合わせて彼は言った。
「マドレーヌ。どこでそんな話を……」
「それは言えません。ですが、フィナンシエ様。この話は確かな筋から聞いた話なのです。それに、彼の飼う蝶が早死にするのは事実なのでしょう? どうにか出来ないのでしょうか。このままでは、来年も犠牲になる蝶が出てしまう。そう思うと、自分が無事だったからと言って、安心することなんて全く出来ないのです。怖くて、怖くて、たまらないのです」
わたしは必死に訴えた。そして、返答を待った。愛すべき我が主人はどんな言葉を返すのだろう。期待と不安のその両方に押しつぶされそうだった。やがて、フィナンシエはわたしの肩を掴んだまま、項垂れた。
「そうか」
そう言って、彼は床に視線を落としたままわたしに言った。
「分かった。この話は覚えておく。怖かったね、マドレーヌ。君はもう寝なさい。私の話は明日にしよう。サヴァランさんのことは一度忘れるんだ」
その答えにわたしは釈然としないものを感じていた。覚えて、そして、どうなるのだろう。サヴァランが仲間たちに手を出すことは止められるのだろうか。アンゼリカの所有権を放棄させることができるのだろうか。それとも、何事もなかったかのように、涼しい顔をして来年もまたオークション会場に現れるのだろうか。そうだとしても、せめて、アンゼリカの捜索が打ち切られることを願わずにはいられなかった。
部屋に戻され、消灯の時刻となっても、わたしはなかなか眠る事が出来なかった。これからどうなるのだろう。どんな未来がわたしを待っているのだろう。目を凝らしても先が見えず、不安で仕方なかった。その状態でうとうとしていると、ふと、視界の端に人影が見えた。慌てて顔を向けると、硝子張りの壁の向こうにグリヨットが立っていた。慌てて近寄って、わたしは片手を突いた。グリヨットも同じく片手を突いてくる。額でなくとも聞こえる自信があっての事だ。彼女もその自信を読み取ったのか、そのまま話しかけてきた。
『こんばんは、マドレーヌ。眠っているところをごめんね』
そう言われ、わたしは笑顔で返事をしようとした。しかし、その前にグリヨットに異変が生じた。肩を震わせ、ぼろぼろと涙を流し始めたのだ。思ってもみなかったことに動揺していると、グリヨットは泣きながら、わたしにその声を伝えてきた。
『あのね……』
良くないことだとは分かった。しかし、それは、あまりに衝撃的な報せだった。
『アンゼリカが死んじゃったの』
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