9.最後の女王
シュセットによるやや雑な案内で、わたしとビスキュイはあちらこちらを歩かされた。けれど、たどり着いた先で待っているのは、いずれも妖精心にぴんと来る光景ばかりだった。どうやら彼女が見せたがっているのはヴェルジョワーズの屋敷の中でも見栄えの良いスポットであるらしく、そのセンスは同じ良血蝶々であるわたしの心にも確かに響いた。足早に歩く彼女について行くのは大変だったけれど、時間を忘れるくらいには退屈しのぎになった。だが、そんなお屋敷案内も終わりの時はやってきた。
最後にシュセットが紹介してくれたのは、玄関ホールに存在する正面階段の踊り場だった。壁にでかでかと掲げられたその美しい絵画の存在を、わたしはこの時になって初めて気づいた。ここを通った時はとにかく人が多くて緊張していたから目に入らなかったのだろう。けれど、一度気づいてしまえば、もう目を離すことができなくなる。それほどまでに魅力的な絵画だった。描かれているのは蝶の妖精の女性である。しかし、わたし達のような姿とは少し違う。その背中には透明感のある白い翅が生えていた。蝶の妖精たちの昔の姿だ。とにかく神々しく描かれているその女性の顔を見つめていると、シュセットがそっと教えてくれた。
「最後の女王ミルティーユ様よ」
シュセットに言われ、わたしは息を飲んだ。その名はよく知っていた。良血蝶々が身につけるべき教養としての範囲内ではあるけれど、そうでなくたって自分たちの先祖の事は興味を持たずにはいられない。ミルティーユがこの世にいた頃、蝶の妖精の背中にはこのような翅が生えていたという。美しい蝶の翅を人間たちは受け入れ、愛でたそうなのだが、神様の気まぐれで急に誕生したエクレール系という翅なし血統の流行が起こって以降、蝶の翅は次第に嫌われていった。そんな時代が続き、世代重ねが続いた結果、全ての良血蝶々は蝶の翅を失ってしまったのだ。今や、エクレール系は全ての良血蝶々の父祖にもなっている。わたしもビスキュイも父祖を辿れば翅なしの父エクレールにたどり着く。けれど、果たして失ったのは翅だけなのだろうか。エクレールの実母でもあるというミルティーユの姿を見ていると、わたしは不安にさいなまれた。忘れかけていた何かを思い出しそうになるその眼差し。この絵をシュセットがわざわざ見せたがる気持ちがなんとなく分かる気がした。
「この絵はね、ヴェルジョワーズ様のお祖父様の代からあったそうよ」
シュセットは言った。
「わたし達の全ての母であるミルティーユ様。二百年ほど前に王国が滅び、蛹の状態で人間たちに囚われた後も、気高さだけは失わなかったと言われている。人間たちを魅了するその力があったからこそ、わたし達は滅ばなかった。彼女が持っていた誇りをわたしは失いたくないってずっと思ってきた。……でも、あなた達を見ていると分からなくなるし、人間たちと向き合っていると、もっと分からなくなる。王国はとうに滅んだし、わたし達は翅を失ってしまった。新しい生き方を受け入れるしかないのかしらって」
シュセットはそう言うと、そっと床に視線を落とした。わたしは不安になって彼女の表情を窺った。そんな事を言い出す良血蝶々なんて初めてだった。兄弟姉妹にはいなかったし、考えたこともない。人間に従うことを当たり前だと思っていたからこそ、シュセットの言葉が妙に重たくのしかかってきたのだ。わたしの視線を感じたのだろう。シュセットはすぐに顔をあげると、先ほどまでの澄まし顔をこちらに向けた。
「案内は以上よ。わたしはヴェルジョワーズ様の所に戻るから。ビスキュイ、道は分かるわよね。あとは二人で自由に過ごしてちょうだい」
そう言って、シュセットは自分だけさっさと戻っていってしまった。最後までツンツンした態度の彼女の背中を茫然と見送っていると、うんと離れたことを確かめてからビスキュイがそっと耳打ちしてきた。
「シュセットの態度はあんまり気にしないで。彼女はペシュの血筋だから」
「その……ペシュって誰のことだっけ?」
勉強不足を恥じながら訊ね返すと、ビスキュイは快く教えてくれた。
「僕たちの先祖の一人だよ。まず間違いなく、君も僕もその血を何処かで少しは引いていると思う。ペシュはね、ミルティーユの三女として生まれた御方でね。蝶の王国の守護神だった一角獣の魂を受け継いだと言われているんだ」
でも、と、ビスキュイは表情を曇らせた。
「彼女はあまり人間に好かれていない。自尊心の塊って言われていてね、その誇り高さが仇となった。いつの間にか蝶の妖精たちを取りまとめて人間たちに反旗を翻して、その罪で公開処刑されてしまったんだ」
「処刑──」
わたしは声を押し殺した。そんな先祖がいたことなんて知らなかった。もしかしたら生家では教わらなかったのかもしれない。だが、そもそもの話、ミルティーユの事だってどれだけ知っているだろう。ミルティーユの最高と息子と言われ、皆の父祖となったエクレールの事は。皆の母系の祖となったミルティーユの娘たちの事は。わたしは彼らを知っていると言えるだろうか。
「ねえ、ビスキュイ」
不安と興味を胸に、わたしはビスキュイに言った。
「ビスキュイはミルティーユの詳しいお話をどこで覚えたの?」
「アマンディーヌ様が教えてくれたんだよ」
「生家では習った?」
その問いに、ビスキュイは首を振った。
「マドレーヌもそうだったのかな。それならたぶん、詳しく教わる事はないんだろうね。生産者の一家は名前とどういう人だったかをざっくりとしか教えてくれなかったもの」
「でも、アマンディーヌ様に教えてもらったのね?」
「うん、だから少しは詳しいよ」
ビスキュイの頼もしい言葉に、わたしは縋った。
「じゃあさ、わたしにも教えてくれる? ミルティーユたちのこと」
すると、ビスキュイは快く頷いてくれた。
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