8.育ちの良い蝶々

 初めて訪れたヴェルジョワーズのお屋敷は、わたしにとって未知の世界でしかない。共に歩くビスキュイの手をうっかり放してしまったら、二度とフィナンシエたちの元にも戻れなくなってしまいそうだ。それにも関わらず、シュセットはこちらを全く気遣う素振りを見せず、足早に歩いて行った。案内しているというよりも、さっさと送り届けたいという強い意志だけを感じ取れた。

 時折、シュセットの歩みを止める者はいた。いずれも人間たちで、恐らくヴェルジョワーズと親しい者たちなのだろう。けれど、わたしから見てぎょっとしてしまうほど、シュセットは彼らに対してツンとした態度をとっていた。あんな態度を人間にとるなんて、厳しく躾けられたわたしには真似出来そうにもない。けれど、シュセットにそんな態度を取られた人々の多くがむしろ笑ってそれを許している。その様子をしばらく見つめて、わたしはふと気づいた。もしかしたらあれこそが、シュセットに求められていることなのかもしれない。この世の中はわたしが考えているよりもずっと複雑に出来ているものだから。そんな学びを得た頃になって、シュセットは呼び止められるわけでもなく自ら立ち止まり、わたし達を振り返った。相変わらずキツい眼差しだが、ビスキュイの存在に勇気を貰いながらわたしは彼女の元へと急いだ。

「まずはこっち」

 そう言ってシュセットが示す先には大きなソファの置かれたサンルームがあった。そこでは数名の良血蝶々たちが屯していて、和気あいあいとお喋りを楽しんでいる。いずれも羽化したばかりと思しき少年少女たちで、わたしやビスキュイとそう変わらない年齢に見えた。招待客の連れてきた妖精たちに間違いない。けれど、シュセットは彼らを前に腕を組み、話しかけるのを躊躇っていた。どうやら命令された以上、わたし達を紹介しなければならないと思っているようなのだが──。

「まあ、シュセット!」

 先に声をあげたのは、ソファに居た少女の一人だった。途端に他の少年少女たちも目をキラキラ輝かせ、シュセットを手招いてきた。声をかける前に気づかれてしまい、シュセットは観念したように彼女たちに近づいていき、わたし達を睨むように振り返ってきた。無言の圧力に屈してビスキュイと共に歩み寄っていく間に、少年少女らはシュセットを質問攻めにしていた。

「とうとうあたし達とお話する気になったのね?」

「ほら、シュセットも座ってよ」

「毎回顔を合わせているのに何にも話してくれないんだから」

 そう口々に言ったところで、少女の一人がふとビスキュイに気づいた。

「ちょっと待って、一緒にいるのはビスキュイじゃない」

 一斉に注目され、ビスキュイは気恥ずかしそうに片手をあげた。

「や、やあ、久しぶりだね、皆」

「久しぶり。体調はもういいの?」

「今回もお休みなのかと思ったよ。ところで──」

 そこで、少年の一人の視線がとうとうわたしへと向いた。

「そっちの子は誰なんだい?」

 彼が首を傾げると、とびきりおめかしをしている少女が感嘆の声をあげた。

「もしかして、その子ってビスキュイの──」

 彼女が言いかけると周囲にいた少女たちが次々に黄色い声を上げ始めた。少年たちもまた嬉々とした視線を向けてくる。そんな彼らの態度にシュセットは心底呆れ果て、腰に手を当てて彼らをまとめて睨みつけた。

「ちょっと騒がないで」

 一喝してからシュセットはぎょろりとした視線をわたしにも向けてきた。

「あなたも黙っていないで、自己紹介でもしたらどうなの?」

 その厳しいお言葉に引っ張られ、わたしはビスキュイの手から離れて皆の前へと近づいていった。丁寧にお辞儀をしてみると、彼らもまたソファに座ったまま丁寧にお辞儀を返してくる。はしゃいではいても、皆、わたしと同じように生まれた気品ある良血ばかりなのだとそれだけで分かった。

「はじめまして、マドレーヌというの。どうかよろしくね」

 すると、ソファにいた蝶々たちも口々に挨拶を返してくれた。幸いな事に、シュセット以外は明るく優しい子たちばかりらしくてほっとした。

「マドレーヌか……」

 全員が挨拶を終えると、少女の一人がふと首を傾げた。

「ん、マドレーヌ?」

 そして、何かを思い出したようにポンと手を叩いた。

「ああ、マドレーヌ! あなた、今年のオークションに出品された子よね。開催期間全体で見ても最高価格だったっていう」

「へえ、そうなんだ?」

 少年の一人が軽く相槌を打つ横で、もう一人の少年が急に深刻な顔をした。

「あれ、それって確かフィナンシエ様が激しく競り合ったっていうあれだよね。確か……サヴァラン様も意地になってぎりぎりまで諦めて下さらなくて──」

「げ、サヴァラン様?」

 その名前が出た瞬間、急に場の空気が冷えてしまった。しばらく誰もが沈黙し、互いに顔を見合わせる。シュセットも、ビスキュイも、どうやら同じような気持ちで黙っているらしい。わたしの方は置いてきぼりだ。誰も彼もがサヴァランを怖がっているけれど、それが何故なのかが分からない。やがて気まずさに耐えられなくなった少年の一人が、沈黙を破ってわたしの顔を見つめてきた。

「君は幸運だったんだね。フィナンシエ様との出会いに感謝した方がいいよ」

 彼がそう言ったところで、シュセットが大きくため息を吐いた。

「油を売るのはこのくらいにしておくわよ。案内するところは他にもいくつかあるから」

 そう言って、シュセットはさっさと歩きだしてしまった。置いて行かれたわたしはビスキュイ共々驚いて、ソファの仲間たちへ匆々に別れを告げてすぐに追いかけた。ビスキュイと手を繋ぎ、足早に進んでいくシュセットをどうにか追いかけている最中、不意に彼はわたしに囁いてきた。

「サヴァラン様のことなんだけどさ」

「うん」

 すぐに返事をすると、彼は深刻な顔で教えてくれた。

「どうやらヴェルジョワーズ様に嫌われているみたいなんだ。アマンディーヌ様も彼の事をあまり良く思っていないらしくて。二人だけじゃなくてね、ここにいる妖精たちのオーナーたちもだいたい同じで、彼の事を少し避けているんだって。何故なのかはあまり教えて貰えなかったけれど、彼にはあまり関わらない方がいいって」

「そうなんだ……」

 それが何故なのか、あわよくばそこが知りたいところだったのだが、悪い噂どころかヴェルジョワーズやアマンディーヌにまで明確に嫌われているとなれば、おおよその人物評は定まるものだ。しかしそうなってくると、ますますわたしは動揺してしまった。あの時、あのオークション会場に、フィナンシエがいなかったら、今頃わたしはサヴァランの妖精になっていたはず。そうなっていたら、どんな思いで過ごしていたのだろう。想像すると途端に得体の知れない恐怖に見舞われてしまった。その不安を少しでも軽減しようとビスキュイの手をぎゅっと握ると、彼は強く握り返してくれた。

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