6章 裏切り者

1.特別な夜

 あっという間に歌劇を観に行く当日になっていた。約束の時間のだいぶ前から、わたしはキュイエールのもとでせっせと準備を進めていた。思えば、愛好会以外での社交場に出るのはオークション会場以来かもしれない。あの時は右も左も分からなかったけれど、今回は少し違う。あの頃よりも少しは物の道理が分かっているという自覚があるからこそ、わたしは緊張していた。おまけに歌劇を観に来るのは格式ある家の人物や、その妖精たちばかりだという。愛好会よりもずっと多くの人々が集うその場所に相応しい姿となるためには、いつも以上に準備が必要だった。おかげで準備には何時間もかかってしまった。

 鏡の前でキュイエールを始めとした使用人たちの手によって着飾り続ける間、わたしは段々と憂鬱な気持ちになっていった。この七日間、わたしはこの屋敷でじっとしていた。フィナンシエの苦しむ姿を見たくなかったからでもある。しかし、やっぱりどうしても、グリヨットたちの事は頭から離れなかった。

 あれからグリヨットは会いに来ない。彼女が来ないと野良妖精たちが今どうしているかを知る機会もない。アンゼリカやババの命を奪った犯人は見つかったのか。シトロンは見つかったのか。新たな犠牲者は出ていないか。情報のないまま時間が過ぎてしまった分、心配は大きくなっていた。同じ妖精なのに、どうしてこうも違うのだろう。そんな思いがふつふつとこみ上げてくる度に、わたしはルリジューズの姿を思い出した。見るも無残なあの傷を晒して、その身に起こった悲劇を赤裸々に語った彼女の姿を。

 生半可な気持ちで飛び込んでいい世界ではない。たとえどれだけ彼ら自身が歓迎してくれるのだとしても、覚悟のないまま向かっていい場所ではないことは確かなのだろう。だからわたしは心を落ち着けて、黙ってキュイエールたちに身を預けていた。そうしてようやく、準備は整った。

「さあ、出来たわ。ほら、御覧なさい」

 キュイエールに優しく言われ、わたしは鏡を見つめた。愛好会に出席する時だってお洒落に着飾るものだけれど、この度はまさにそれ以上の出来栄えだった。この日の為にフィナンシエに用意してもらった赤いフリルのドレスは、驚くほどわたしに似合っていた。いつもは付けないような大きなリボンも、まとめ髪も、いつもよりもだいぶ大人に見える化粧も何もかも、自分自身であることが不思議に思えるほど美しく見えたのだ。

「マドレーヌ。ここへ来た時よりも、お姉さんになったわね」

 キュイエールは一緒に鏡を覗き込みながらそう言った。

「今宵のあなたなら、ビスキュイの心もぎゅっと掴めるはずよ」

「……そうかな」

 照れくさくなりながら呟くと、キュイエールはにこりと笑いながらわたしの肩を抱いた。

「きっと……いいえ、絶対に。ねえ、マドレーヌ。帰ってきた後は、歌劇の感想を聞かせてね。それに、旦那様たちのことも良かったら。今宵はね、旦那様たちにとって特別な夜になるかもしれないの」

「特別な夜?」

 問い返すとキュイエールは静かに頷いた。周囲にいる若い使用人たちもまたくすりと笑い合っている。キュイエールもまた彼女らと笑い合うと、小声でわたしに教えてくれた。

「これは噂好きの料理長が言っていたことなんだけれどね、どうやら旦那様は、今宵の席でアマンディーヌ様に正式なプロポーズをなさるようなの。やっとこの時がくると屋敷中、溜息だらけよ。でも、旦那様ったら本当に出来るかしら。これまでだって数あるチャンスを逃し続けているのだもの。でもね、料理長が言うには、今回ばかりは意気込みが違うのですって。だから、期待できるんじゃないかって」

「そうなんだ……今夜が」

 つまり、アマンディーヌたちが本当の家族になるかどうかが決まるかもしれない。それでは、なおさらいい子でいないと。愛する主人たちの邪魔をしないように、ビスキュイ共々身勝手な行動は慎まないといけないだろう。わたしは胸に手を当てて、自分自身に言い聞かせた。今宵はいつも以上に、自分の中に流れる従順の母フルールの血を意識しなければ。

「もし覚えていたら、旦那様たちの恋の行方にも注目してみてね。ああ、でももちろん、劇が楽しかったらそっちに集中してもいいのよ」

 キュイエールは上機嫌にそう言うと、わたしのリボンを整えながら言った。

「とにかく今宵は楽しんで来て、ね、マドレーヌ」

 優しい彼女の笑顔を鏡越しに見つめ、わたしは頷いた。

「分かった」

 無理にでも笑みを浮かべると、緊張も少しはましになった。それに、キュイエールたちと話していると、憂鬱さも薄らいだかもしれない。ルリジューズの言っていた幸せの在り処はここにある。今宵だけでもそう思いながら過ごさないと全てが台無しだ。何も見なかった。何も知らなかった。そう自分に言い聞かせ、ビスキュイと共に二人の主人の絆が深まるように見守らなければ。そして、自分の立場というものを思い出さないと。

 わたしは誇り高き良血妖精として生まれた。オークションでは一番の金額で売れて、フィナンシエの名声をあげた。その名誉を傷つけるようなことがあれば、きっとサヴァランのように嫌味な御仁にねちねちと攻撃されることになってしまうだろう。気を付けなければ。

「まあ、もうこんな時間。行きましょう、旦那様がお待ちかねよ」

 キュイエールに言われ、慌ただしく手を引かれた。玄関ホールの階段を降りてみれば、扉の向こうで馬車はいつでも発車できるように待機していて、とっくに準備を済ませていたフィナンシエが歩き回っているのが見えた。わたし達が来た事に気づくと、フィナンシエは顔をあげ、満面の笑みを浮かべた、どうやら、今宵の出来栄えは彼にとっても満足いくものらしい。傍によると、彼は手を差し伸べてきた。

「見違えたよ、マドレーヌ。きっと今宵は君の噂でもちきりだろう」

 照れ隠しにお辞儀をすると、すぐに馬車へと乗り込んだ。とにかく今宵は大切な夜だ。馬たちが駆けだす中、移り変わる景色を眺めながら、わたしは心の中に刻んだ。

 絶対に、邪魔だけはしないようにしないと。

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