9.別れの挨拶
別れの挨拶。それは本当ならば覚悟していたはずのことだった。そう、いつかグリヨットたちは旅立ってしまう。わたしとビスキュイが決断すべき時は必ずやってくるわけだ。それまでに仲間に加わるか、人間に愛される良血妖精のままでいるか、きっちり決めておくべきだということは分かっていたはずだった。けれど、わたし達はあまりにだらだらしすぎてしまった。覚悟していたつもりなのに、グリヨットに真っすぐ言われて動揺してしまったのだ。
『それってつまり──』
ビスキュイの声に、グリヨットは頷いた。
『そう、いよいよ旅立つ日が迫って来たの。それでね、マドレーヌとビスキュイはきっと、このままの暮らしを続けるだろうから、せめて最後に顔を見たかったの。きっと、新しい王国に行ってしまったら、こっちに戻る事はないはずだから』
グリヨットはそう言って屈託のない笑みを見せた。わたし達と別れる寂しさよりも、未来への希望の方が大きいのだろう。その目の輝きは、いつにも増して眩いもので、見ていて羨ましくなるほどだった。だが、憧れている場合ではない。旅立ちだ。ついて行かないなら行かないで、せめて見送りたい。グリヨットとはこうして会うことが出来たけれど、ルリジューズやノワゼット、それにフランボワーズたちにも感謝と別れの言葉を伝えるべきではないだろうか。
『い……いつ? いつ旅立つの?』
焦りを覚えつつ訊ねてみると、グリヨットは少しだけ考えて『多分だけど』とあらかじめ断ってから教えてくれた。
『三日後だと思う。天気が悪かったら四日後か五日後。とにかく、一刻も早く出て行こうってクレモンティーヌ様がお決めになったんだ。もうすでに、卵や蛹は移動しているし、花の妖精だって、ほとんどが移動してしまったよ。残っているのは本当にわずかなんだ』
『早くて三日後……』
急な話にビスキュイも目を見開いた。わたしもまた驚かずにはいられなかった。しかし、ここは逆に考えよう。まだ猶予はある。明日でも、明後日でも、機会を得られれば最後の挨拶に向かう事だって出来るはずだ。そう、以前ならば……以前のわたしならば、簡単に会いに行くことは出来た。フィナンシエに心配をかける罪悪感はあっても、今のわたしの置かれた状況とは全く違うのだから。そんな複雑かつ面倒くさい状況をグリヨットはどれだけ知っているのだろう。寂しそうに笑いつつ、彼女はわたし達に言った。
『ねえ、二人とも。ルリジューズからね、メッセージを預かってきたんだ』
『ルリジューズから?』
問い返すと、グリヨットはしっかりと頷き、そして訊ねてきた。
『聞いてくれる?』
わたしはビスキュイと視線を合わせ、恐る恐る頷いた。すると、グリヨットは少し安心した様子でその言葉を伝えてくれた。
『マドレーヌ、ビスキュイ。恐らくこれが最後となるでしょう。新しい可能性を信じて飛び込んでいく者の一人として、私はあなた達の勇敢さを忘れません。あなた方の勇気に感謝します。これからもどうか、妖精として妖精らしく誇り高く生きていけるよう、遠くから祈り続けます。苦しい時、辛い時、私の祈りを思い出してください。離れていても、見上げる空、踏みしめる大地は繋がっているはずです』
──ルリジューズ。
妖精として、妖精らしく、誇り高く。グリヨットが伝えてくれた言葉を聞くと、わたしの心は大きく震えた。もともと、ルリジューズに会いに行ったのだって、誇りを取り戻すためでもあった。人間の顔色を窺うことなく自分の悲しみと向き合える場所。それが、グリヨットの連れて行ってくれた、あの祈り場だったのだ。
人間のために、人間によって生み出されたわたしだけれど、それでもあの場所は受け入れてくれた。けれど、これからはなくなってしまうのだ。このまま良血妖精のままでいる限り、遠く、遠くへと離れていってしまう。
空と大地は繋がっている。確かにその通りだ。だが、その言葉を拠り所にわたしは何処まで耐えられるだろう。
『ルリジューズの伝言は以上だよ』
グリヨットはそう言って、わたし達に笑みを向けた。
『さっきは謝ったのに身勝手かもしれないけれど、あたしはね、マドレーヌやビスキュイと知り合えてよかったって思っているの。二人にとってはどうだったか分からなかったけれどね、少なくともあたしにとってはそう。自由気ままに生きて、何にも縛られずに世の中を見つめてきたつもりだったけれど、あたしはまだ世界の半分も知らなかった。二人に色々と教えるつもりだったのに、二人から教わることだらけだったって今になって気づいたから。それに、命も助けてもらったしね』
そう言ってグリヨットは苦笑すると、小さくため息を吐いた。
『だから、いよいよお別れだって思うと寂しい。でも、それでいいんだってルリジューズは言っていたよ。フランボワーズ様も言っていたもの。良血妖精には良血妖精の幸せがあるって』
『グリヨット……』
わたしは息を飲み、その名を呼んだ。
『わ、わたしは──』
だが、言いかけたその言葉はグリヨット自身によって制されてしまった。
『マドレーヌ。あのね、クレモンティーヌ様とフランボワーズ様のお母さまであるギュイモーヴ様が生きてらした時代に、こんな言葉を遺されているの。何かをやり遂げたい時は慎重になりなさい。そして、まずは自分の命を守るのです。自分の命が守られなければ何も成し遂げられません。夢を叶えることも、愛する誰かを助けることも。つまりね、このままお別れだとしても、マドレーヌには今は無理をしないでほしいの。ご主人様はマドレーヌのことを本当に愛していらっしゃるようだもの。そういう人間と縁が出来たこともきっと、妖精たちの守護者のお導きなのかもしれないよ。それに、生きていればいつかまた会えるはず。だから、ね?』
諭されるように言われ、わたしはもう何も言えなくなってしまった。グリヨットのキラキラした目が眩しい。彼女は迷いがない。大勢の仲間と一緒に旅立つ先に待つ明るい可能性を信じている。対してわたしはどうだろう。自分の優柔不断さが腹立たしいくらいだ。ここまで来たらもう、笑顔で見送ることしか出来ないはずなのに、いまだに悩んでいるのだもの。
グリヨットは言った。
『ありがとう、二人とも』
まっすぐな言葉が、キラキラした視線と共にこちらに向けられる。無邪気で愛らしい笑顔は、出会った頃から変わらない。
『これまで仲良くしてくれて、ありがとう。いっぱい助けてくれて、ありがとう。離れていても、二人の事は忘れないから』
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