12.天からの一撃

 地面の上に降ろされると、そのままわたしは膝から崩れ落ちてしまった。オークション会場で初めて味わったあの緊張感とは比べ物にならない恐怖を味わわされていた。これまで感じたことのない恐怖のせいかすっかり腰の力は抜けてしまい、立ち上がることはもはやできず、逃げ出すなんて考えられない。しかし、このまま従えば、どうなるかなんて目に見えていた。

 屋敷の灯りはついていた。恐らく使用人たちがいるのだろう。彼らの善意に縋ることなんて現実的ではない。だって、彼らもまた共犯者なのだから。サヴァランのやっている事を知らないはずがない。間近で見ていて、それを止めずにいる人たちなのだ。何もかも違う。フィナンシエの屋敷の人間たちとは。

「立てる?」

 ヴァニーユがしゃがみ、わたしと視線を合わせてきた。

「怖くて立てないのね? いいのよ。少し休んだら抱えてあげるから。どうせ逃げられないでしょう? 助けも来ないでしょう? それなら、諦めた方がいいわ」

 赤い目を細めて、ヴァニーユは言った。

「ねえ、マドレーヌ。アンゼリカがどんな風に死んでいったのか気にならない? 今夜はその全てを教えてあげる。彼女が息絶えるまでにしたことを、全部してあげる。だから、楽しみにしていて」

 目と目を合わせていると、震えが生まれた。ここまで恐怖を植え付けられてなお、彼女の姿がカモミーユに似ている事実が怖かった。今からでも嘘だと言ってほしい。全部、わたしを驚かすための冗談だったと言ってほしい。

「もうすぐご主人様が帰ってくる。つまらない歌劇で盛り下がったその御心をわたくしが癒してさしあげないと。その為に協力してね、マドレーヌ。一生の一度の素晴らしい舞台にあなたは立つの。看板女優のブリオッシュには絶対に出来ない芸術の主役として、サヴァラン様の心にずっと残り続けるの。素敵でしょう?」

 もはや何の反応も出来なかった。何を言い返そうとも、どんな表情をしようとも、絶対的強者であるヴァニーユを楽しませることになる。それが嫌だった。わたしは視線を逸らし、俯いた。それが、逃げることの出来ないわたしのつまらない抵抗だった。

 歌劇が終われば、サヴァランはまっすぐ帰ってくるだろう。その馬車が到着したら、わたしの死は近づいてくる。その事を自覚すればするほど、気を失ってしまいそうだった。しかし、気を失えば彼女の思うつぼだ。せめて意識だけは手放さないように、わたしは堪えていた。心も体も限界だった。こんな恐怖を味わうことになるなんて、アンゼリカは味わったなんて、どうして信じられるだろう。こんなことが、こんな恐怖が、この世に存在しているなんて。

 いよいよ耐えられなくなってきたその時、ヴァニーユが動くのを感じた。サヴァランが帰って来たのだろうか。一気に意識が醒めて顔をあげたその時だった。空高くから咆哮のような声が聞こえてきた。見上げてみれば、流れ星のようなものがこちらを目掛けて急降下してきていた。ヴァニーユは険しい顔をして、わたしの手を握り締めた。だが、引っ張るより先に、その流れ星は落ちてくる。

 ヴァニーユは結局、わたしの手を離してその星を避けるべく距離を取った。ずいぶんと鋭い流れ星だった。月夜を受けて赤く輝くのは蝶の翅。構えていた木槍は一角獣の角のよう。その姿が目に入り、わたしは震えてしまった。

「フランボワーズ様……!」

 その名を呼ぶと、膝から下の力が戻ってきた。

「怪我はしていないようだね」

 フランボワーズはそう言って、ヴァニーユを睨みつけた。

「残念だ、ヴァニーユ。君には何度も助けられてきた。しかし、それすらも私たちを陥れる策の一つだったわけだ」

「フランボワーズ様、あなた方とのお付き合いから得られるものも多くありましたとも。本物の花に生まれていたらと思うことがなかったわけではありません。けれど、残念ながら、わたくしは蟷螂。あなたの尊いお姿もまた、美味しそうに思えてならないのです」

「蟷螂が蝶を食べたがってしまうのは自然の摂理だ。そこに罪はないのだろう。だが、お前は殺戮を楽しんだ。仲間たちを苦しめた。そして、これからも楽しもうとしている。それを私は許しておけない。二度とこんな真似はしないとここで誓うか、戦うか、二つに一つだ」

 木槍を構えてフランボワーズは言った。だが、ヴァニーユは怯まずに微笑むばかりだった。

「相変わらず優しい御方ね。仲間の一人や二人くらい、諦めてしまう方が賢いというのに。わたくしは確かに殺戮を楽しみました。生きた蝶を食べる悦びを知ってしまい、予め切り刻まれた肉につまらなさを感じてしまいます。でも、これで最後にすることは誓えますよ。マドレーヌで最後にしましょう。それ以降は、あなた方に迷惑はかけません。いずれ出ていくのですから、その邪魔なんていたしません。ねえ、お分かりでしょう。マドレーヌひとりの命で、あなた方は安全を取り戻すのですよ」

 わたしの命と引き換えに。とんでもない取引に、わたしは不安に駆られた。だが、フランボワーズは「駄目だ」と、即答した。木槍を構えたまま、わたしを庇ってくれた。その背中を見つめながら、わたしは震えを感じていた。恐怖の震えではない。その神々しい後ろ姿に、震えてしまったのだ。

「この子もまた私たちの仲間だ。私たちに勇気を捧げてくれた姉妹だ」

 力強いその言葉に、痺れすら感じた。だが、ヴァニーユはつまらなさそうに笑った。

「お姉さまと違って愚かなお姫様だこと」

 そして、ヴァニーユはフランボワーズに飛び掛かってきた。フランボワーズもまた正面から立ち向かっていく。震える事しか出来ないわたしの前で、フランボワーズとヴァニーユが戦い始めた。きっとサヴァランに持たされていたのだろう。ヴァニーユは懐から鉄の針を取り出した。針とはいえ、フランボワーズの持っている木槍よりもきっと丈夫なはず。あのように頑丈な武器のせいで、わたし達の先祖は人間に敗れてしまったのだから。

 しかし、フランボワーズはさすがに強かった。戦い慣れている。収容所を襲撃し、仲間たちを救ったのは伊達じゃない。危険に飛び込むその勇気に釣り合う力強さと瞬発力が彼女にはあった。きっと、蝶の王国を守ってきた一角獣たちもあのように勇ましかったのだろう。わたしだって女王と一角獣の末裔ではあるはずだけれど、受け継いだモノの違いに震えてしまう。

 ああ、あの人こそが、わたし達の新しい女王なのだと、フランボワーズの姿を見ていると確信を持って思うことが出来たのだ。やがて、フランボワーズの木槍がヴァニーユの手を叩きつけ、鉄の針を落とさせた。その衝撃でヴァニーユはふらつき、そのまま倒れてしまった。

 勝機がきた。フランボワーズは逃さずに、その白い首に木槍を突きつける。

「最後に問おう。誓うか、ここで死ぬか」

 菫色の目で睨みつけるフランボワーズを、しかし、ヴァニーユもまた睨みつけていた。

「本当に愚かなお方」

 彼女がそう言った時、わたしは背後の物音に気付いた。馬車の音だ。蹄の音に、車輪の音。屋敷に近づいてきている。誰が乗っているかなんて考えるまでもない。フランボワーズはその音に振り返ると、あっさりとヴァニーユを解放し、そのまま走り出した。勢い任せにわたしの身体を抱えると、小声で囁いてきた。

「しっかり捕まって」

 その言葉通りに彼女にしがみつくと、直後、足が宙に浮いた。風を感じ、眩暈が起きてしばらく、ようやく何が起こったのかを理解したのは、ヴァニーユの姿が遠ざかってからのことだった。空を飛んでいる。フランボワーズの大きな翅が、わたし達を夜空へと誘ってくれたのだ。ヴァニーユは追いかけてこられない。もう恐れなくていい。その事に安心していると、フランボワーズは静かに言った。

「グリヨットは無事だよ」

 優しい言葉が心身に沁み込んできた。

「君のお陰だ」

 その途端、わたしは声を出して泣いてしまった。

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