12.ただ仲良くなりたくて
ヴァニーユによれば、蝶の王国があった時代において、花の妖精たちはただ単に支配されているだけではなかったという。王国が滅ぶ頃、花の女王の血筋はすでに蝶の王城の中でのみ咲くことを許されていたが、全ての花がそうであったわけではないし、白い花の一族であっても王城の外を出て活躍することはあった。中でも王国の安全を影から支えていたのが、健康上の理由で蜜を生めない花たちだったという。特有の甘い香りを持たない彼らは隠密活動が得意だった。気配を殺してあらゆる物事を目にし、蝶たちに伝える彼らがいたからこそ、あらゆる肉食種族の襲撃にも備えられ、長らく平穏な時代を築けたらしい。
言われて納得する程、ヴァニーユの接近にわたしもアンゼリカも全く気付かなかった。もちろん、人間たちにも気づかれることなく移動できる。この才能を活かして、クレモンティーヌとフランボワーズの役にも立っているというのだ。出来ることをして、皆の役に立つ。危険と隣り合わせである野良妖精たちの実際を思うと無邪気に羨ましがるのは罪深いことにも思えたものの、単純に言ってやはり心の何処かで憧れがあった。
ともあれ、ヴァニーユのお陰もあってわたし達は無事に祈り場まで帰ることが出来た。声を頻りに送っていたために、アンゼリカを探していた全員が戻ってきていたらしく、彼女の無事を喜んでくれた。足の怪我はすぐに伝統的な妖精の医学の知識を持つジャンジャンブルが診てくれたし、しばらく安静にしていれば良くなるとのことだった。
「よく見つけたね。まさかマドレーヌが見つけるなんて思わなかった」
そうこっそり耳打ちしてきたのはビスキュイだ。彼と共にアンゼリカの治療を見守りながら、わたしもそっと返事をした。
「勘が当たったみたい。運が良かったんだろうね」
確実に運は良かった。アンゼリカは壮絶な経験の果てにこの場所に逃れてきたわけだが、完全に運命の女神から見放されたわけではなかったのだろう。主人には恵まれなかったが、新しい家を得た。彼女はきっと、新しい王国の住民となるべく定められているのだろう。彼女の無事を喜ぶ仲間たちの笑顔を見ていると、そんな気持ちになった。診察と治療が終わると、アンゼリカは祈り場の空き部屋で寝かされることとなった。どうやらそこは元から病気の妖精たちのための寝室として使われているらしい。部屋の中には古びているがまだまだ寝心地の良さそうなベッドが複数あり、そのうちの窓際のベッドにアンゼリカは寝かされた。
祈り場ならばルリジューズとノワゼットが常にいる。近くを根城にしているというグリヨットや、家を失ってしまったシトロンやヴァニーユといった妖精たちも頻繁に出入りするため、不安はなさそうだ。けれど、わたしは純粋にアンゼリカのことが心配だった。塗り薬が効いているのか痛そうに顔をしかめていたからだ。
「アンゼリカ」
ベッドで横たわる彼女にそっと声をかけた。
「大丈夫?」
すると、アンゼリカはすぐに目を開け、そして微笑みを浮かべた。それは、初めて目にしたごく自然な微笑みだった。
「ええ、大丈夫」
アンゼリカはそう言うと、わたしの手を握り締めた。
「マドレーヌ。あなた、優しいのね。でも、もういいの。もう十分すぎるほど優しくして貰えた。これ以上は、こんなわたしには勿体無いわ」
「そんな事言わないで。アンゼリカ、わたしはね、あなたとただ──」
ただ、なんだろう。言葉に詰まってしまった。優しくしたくなるのは同情からではないのか。そう訊ねられたとしたら、それは図星なのかもしれない。だが、この同情こそが彼女を傷つけるのだとしたら。わたしは何と答えたらいいのだろう。迷っていると、アンゼリカは言った。
「わたしね、こんなに優しくして貰っても、やっぱりあなたのことが妬ましくなってしまうの。あなたには安全な家がある。心配してくれる優しい主人がいる。そのことを恨んでしまいそうになる。ね、わたしに優しくする理由なんてないでしょう?」
突き放すように彼女は言う。けれど、その自嘲っぽい口調は、とても放っておけるものではなかった。わたしは手を握ったまま、迷いに迷いつつ見つけ出した言葉をかけた。
「違うの。わたしはただ、それでも、あなたと仲良くなりたいだけなの」
この言葉が、アンゼリカにとってどういうものとなるのか、わたしには正直のところ分からない。どんなに考えて、想像してみても、結局はアンゼリカの心の全てなんて見通せないわけだ。意図せず傷つけることを恐れて何も言えないままでいるくらいならば、思っていることを伝えてしまった方がいい。そう思って、わたしは素直な気持ちでアンゼリカに言ったのだ。当の本人にはどう伝わっただろう。怖くないわけではない。しかし、言ってしまえば先ほどよりも心はだいぶスッキリした。アンゼリカはしばらくわたしの顔を見つめていた。やがて、力なく微笑むと、わたしの手を握ったまま軽く揺らして呟いた。
「ありがとう、嬉しい」
それっきり、アンゼリカは黙り込んでしまった。泣き出しそうなその顔を、いつまでも見つめているわけにはいかない。けれど、アンゼリカはしばらくわたしの手を握ったままじっとしていた。わたしはその手の温もりを感じながら、声はかけず、じろじろ見ずに、ただそっと傍に寄り添い続けた。拒絶はされない。手は離されないまま。それはつまり、ここに居てもいいということだ。少しずつであっても、もしかしたらもっと仲良くなれるかもしれない。そんな希望がわたしの胸に小さな灯りをともしていた。
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