7.忘れられない情景

「時々さ、夢を見るんだ」

 ビスキュイは言った。その目はじっと絵画を見つめている。わたしも隣に並んで先祖の絵を見つめながら、彼の言葉に耳を傾けた。

「マドレーヌと一緒に聞いたフランボワーズ様の演説のこと。彼女の姿とこの絵の先祖たちの姿が被って見える。そしてその向こうには、かつてあったはずの王国が見える。そんな夢を見てしまうんだ。どうしてだろう。アマンディーヌ様はいつだって僕に優しくしてくれるのに。どうしてだろうね。気づいたら、僕、グリヨットたちの語る新しい国で一緒に暮らす自分の姿を想像してしまうんだ」

 彼の言葉を聞いていると、途端に胸が苦しくなった。強い思いがこみ上げてきて、感極まって泣きそうになってしまう。けれど、必死に堪えてわたしは声を押し殺し、彼にそっと囁いた。

「本当だ。同じだね」

 目を閉じると瞬く間に光景が広がる。クレモンティーヌとフランボワーズの二人を中心に、蝶のための世界が築かれる夢のような光景が。かつて先祖たちが暮らしていたような美しい大自然の中で、グリヨットたちと一緒に力を合わせて暮らしていく。そこは間違いなく理想の世界だった。でも、どうしてだろう。わたしには分からなかった。良血妖精として生まれ、育ってきたプライドがあるはずなのに。フィナンシエのもとで幸せを感じているはずなのに。不自由であろうと恵まれている有難みを分かっていると思っていたのに。

「どうして、憧れちゃうんだろうね」

 呟くと、ビスキュイは俯いた。

「本当、どうしてだろうね」

 彼もそう言って、ぎゅっと目を閉じた。こんな悩みを主人に打ち明けられるはずもない。とんでもない裏切りだ。これまでずっと愛をくれた彼らのことを思うと申し訳ない気持ちになるのは、きっとビスキュイも同じはず。だから、声を押し殺しながら二人きりで打ち明け合うしかなかった。けれど、傷の舐め合いをずっと続けていたって意味はない。このもやもやした気持ちを解消する方法は別にあるような気がした。しかし、その方法を口にすることは躊躇われた。言うべきか、心にしまっておくべきか、迷い続けていると、不意にビスキュイは顔をあげ、周囲を十分に窺ってからわたしにそっと耳打ちしてきた。

「ねえ、マドレーヌ」

 そして、彼は言ったのだ。

「今から確かめに行ってみない?」

「確かめる?」

 わたしは思わず問い返してしまった。良血妖精として信じられなかったからではない。まさか、ビスキュイの方からそんな事を言い出すなんて思わなかったからだ。そう、わたしが彼に言おうとしていたこともまた、まさしく同じ事だった。

「グリヨットが言っていたでしょう? 今日もフランボワーズ様の演説がある。今から向かえばまだ間に合うはずだよ」

「でも、ビスキュイ。本当に良いの?」

 その問いに、ビスキュイはわたしを安心させるように笑って頷いた。

「僕は大丈夫。もしもこれでアマンディーヌ様の愛を失うことがあったら、いっそのことグリヨットたちの仲間になろうって思っているんだ」

「グリヨットたちの仲間に……」

 良血妖精が野良妖精になる事。それは、少し前ならば考えたくもない不幸だった。実際、ルリジューズもヴァニーユも、そしてアンゼリカも、あまり幸せそうには見えない。むしろ、生まれつき自由を知っている……いや、それしか知らないグリヨットの方が幸せそうに見えるくらいだ。きっとあの場所は良血暮らしを知っている妖精には辛いものがあるだろう。けれど、それは分かっていても、ビスキュイの言葉はわたしにとって少しだけ勇気づけられるものに感じられた。もしもフィナンシエの愛を失ったとしても、ビスキュイが一緒なら。

「さすがに甘いかな?」

 ビスキュイは苦笑しながらそう言った。

「マドレーヌはやっぱり怖い? もし怖かったら、僕の言ったことは忘れて。ここで大人しくしていよう」

 そんな彼にわたしは慌てて首を振った。

「ううん、怖くない」

 そして、覚悟を決めてわたしは言ったのだ。

「行きたい。一緒に行こう。行って、確かめてみたい」

 自分でも驚くほど前向きな気持ちでそう言えた。一度ならず二度も脱走してしまったからだろうか。逃げ出すことへの躊躇いなんて殆どなくて、タガが外れてしまったようにそれ以上の迷いも起きなかった。胸の中で膨らんだ好奇心は抑えがたく、わたしの従順なはずの血筋をいとも簡単に封じ込めてしまったのだ。だから、わたしは罪悪感もなく、自分の願望を口に出来た。

「自分の本当の気持ちを知りたいの」

 言えば心が一気に軽くなった。ビスキュイは嬉しそうにわたしの両手を掴むと、深く頷いた。その後は、言葉のやり取りはなかった。手を繋いで集中し、彼は声を伝えてきた。

『じゃあ、今から行こう』

 それは、出会って一年ほど。初めて彼と交わした”声”のやり取りだった。直接、手を繋いでいるからか、はたまたグリヨットとの毎晩の練習の賜物か、額をくっつけることなく声は読み取れた。わたしもまた集中しながら、『うん』と、声を返した。その後は手を繋いだまま慎重に歩むと、ビスキュイの先導のもと部屋をそっと抜け出した。

 きっと主人たちも屋敷の者たちも、わたし達が盗まれる危険には敏感であっても、逃げ出すことへの警戒はまだまだ薄い。たぶん、それだけわたし達のことを信頼しているのだ。そうでなければ、馬や犬のように繋いでおいたり、小鳥のように籠にいれたりするはずだから。その信頼を裏切ることになる。その罪悪感が顔を覗かせてこようとしたが、その前に、わたし達は駆けだした。そうまでしても、確かめたかった。自分はどうしたいのか。もっともっとグリヨットたちの事を知った上で、自分たちで判断したい。そんな気持ちは止められなかった。

 わたしとビスキュイはそのまま忍び足で屋敷を進んでいった。そしてとうとう、誰にも気づかれることなく屋敷の外へと抜け出したのだった。

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