10.せめて見送りたくて
翌日、ビスキュイの部屋で目覚めたわたしはすぐに壁に手を突くとアマンディーヌのお屋敷の音を探った。続いて目覚めたビスキュイもまた、慎重に様子を窺っていた。二人の主人は遅くまで話し合いを続けているようだった。きっと同居した際のことだけではないだろう。ここ最近の話題には、フィナンシエを敵とみなしたサヴァランの動きもまた含まれている。わたしのせいと言えばそうであるし、そこは申し訳なく思う。それでも、やはり妖精には妖精の都合というものがあるのだと、今だけは思いたかった。
昨晩、わたしとビスキュイもまた主人たちのように話し合いをしていた。グリヨットが去った後からずっと、それとなく、途切れ途切れに話を続けた。他人のことを言えた義理ではないのだが、わたしに負けず劣らずビスキュイもまた優柔不断なところがある。だから、話し合いは非常に曖昧な言葉で続いていった。それでも、わたし達は話すことをやめなかったし、その結果、少しずつ結論に向かっていった。
どんなに優柔不断であっても、結論さえ見つかれば行動だって決まるもの。わたしとビスキュイが至った結論は、「せめて見送る事だけはしたい」というものだった。そうと決まったわたし達が真っ先に取った行動は、主人たちへの陳情だった。つまり、グリヨットたちを見送らせてほしいと正直に訴えたのだ。二人は、温かく聞いてくれた。わたし達の気持ちに寄り添い、寂しくなることや見送りたい想いを尊重してくれた。しかし、それだけだった。言葉を選びつつ、フィナンシエはわたしに言ったのだ。
──すまない。分かってくれ。
結局、彼らは人間で、わたし達は妖精だ。これ以上、訴えても無駄だというのはすぐに悟った。ビスキュイも同じだったようで、あっさりと諦め、黙ってしまった。だが、黙って終わりだろうか。いや、違う。主人たちへ出過ぎた申し出を二人で詫びながら、わたし達が腹の底で抱え始めていた思いは同じだった。こっそりと抜け出して、こっそりと帰ってくるしかない。いつものようにまた迷惑をかけるのかと誰かに問われれば、確かに後ろ髪を引かれる思いはある。けれど、これを逃せばもう機会はない。
そう、わたし達が至った結論はもう一つあった。それは、これからも二人一緒に人間に愛される妖精でいようというものだった。気持ちよく仲間を見送り、その門出を祝う。そして、忘れないと言ってくれた彼らのことを、わたし達もまた忘れずに生きていくこと。彼らには彼らの、そして、わたし達にはわたし達の幸せがあるはずだ。ならば、悩んだまま暗い顔をしたままでいるのではなく、笑顔で見送ろうじゃないか。それが、難航はしても一晩逃げずに考えた、わたし達の決断でもあった。
決まったからには、行動あるのみ。すっかり人間たちの信用を失ってしまったわたし達だけれど、策がないわけではない。壁から伝わる音の情報は、色々なことをわたし達に教えてくれる。何処が外に繋がっていて、何処が封じられているのかも、大雑把にだが探る事は出来る。問題があるとすれば、その外に通じる道が虫やネズミしか通れないような小窓である場合くらいだが、それを恐れて行動しなければそれまでだ。
朝食を終えて、フィナンシエとアマンディーヌの二人の主人への挨拶も済ませると、わたしとビスキュイは部屋に戻りつつ機会を窺っていた。すっかり信用を失っているわたし達ではあっても、ビスキュイの部屋には鍵を掛けられずに済んだ。昨日一日大人しくしていたお陰か、はたまた忙しさのあまり忘れているのか。いずれにせよ、条件は整っている。他に障壁があるとすれば、己の恐怖心だけ。フィナンシエたちの信用をさらに失う事への恐怖心だ。ちょっと見送るだけと言っても、せっかく庇ってくれようとしている彼に、また迷惑をかけることになる。今度こそ、わたしは追い出されてしまうかもしれない。その覚悟が今のわたしにはあるのか。
何度もため息を吐いていると、ビスキュイがそっとわたしの手を握ってくれた。
『ねえ、マドレーヌ』
彼は“声”を使って言った。
『もし、この事でフィナンシエ様の愛を失ってしまったらさ、その時は僕と一緒に新しい蝶の王国を目指してみない?』
『王国を?』
『うん、ここに居続けるよりもずっといいって思うんだ。サヴァラン様もまさか都の外までは追ってこないだろうしさ』
心強い誘いに一瞬笑みが浮かんだが、すぐにわたしはふと気になってビスキュイに訊ねた。
『でも、ビスキュイ。あなたまで来ることないよ。アマンディーヌ様が悲しむよ』
『確かに、悲しませちゃうかもね。でもね、僕だって妖精なんだよ。君が居場所を失うのなら、その時は僕も一緒だ。一人より、二人の方が安心でしょう?』
彼の温かな言葉にすぐに胸がいっぱいになった。その手を両手で包み込むと、わたしは深く頷いた。
『ありがとう。じゃあ、その時は一緒にいて。ビスキュイが居場所を失うことになった時も、わたしが一緒だから』
頷き合って、わたし達は深呼吸と共に再び音を探った。アマンディーヌの屋敷の詳しい構造は、まだ頭に入っているとは言えない。それでも、音は屋敷中の情報を伝えてくれる。ビスキュイから教えて貰っている屋敷の情報と繋ぎ合わせ、何処が外に通じているのかを導き出した。ただビスキュイに手を引かれて歩くよりも、この方が確実だ。
『じゃあ、行こうか』
ビスキュイの合図と共に、わたし達は部屋の扉をそっと開けた。野良猫のように忍び足で廊下を渡り、ネズミのようにこそこそと物陰へと隠れる事しばらく。幸いにも、わたし達の愚行に人間たちはまだ気づいていなかった。そして、そのまま気づかれることなくテラスへとたどり着いたのだった。
使用人たちはいない。わたし達は最後の最後に駆け出して、そのまま美しい庭園へと飛び出していった。そして、庭から茂みへと入り込む直前、異変に気付いた使用人たちの騒ぎ声を耳にした。
いつかは気づかれる。それは仕方のない事だ。それよりも無事に外へと至れたことに安心するべきだろう。アマンディーヌのお屋敷の敷地から外へと出た後も、わたし達は走り続けた。振り返らずに、考えすぎずに、ただ前へと進み続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます