11.幸せの在り処

 ルリジューズがここへ来たのは彼女自身の選択でもある。良血妖精として誇り高く死ぬことよりも、生き物として当たり前に持つ死への恐怖の方が勝った。野良妖精たちの世界は、そんなルリジューズにとって行き着くべき世界に他ならなかったのだ。それでもルリジューズはやはり、ここでの暮らしに戸惑いを覚えることが多々あるのだという。

「マドレーヌ。あなたは当たり前のように蜜飴を食べているでしょう」

 ルリジューズに言われ、わたしは素直にそれを認めた。一回の食事につき一粒か二粒ほど与えられるその飴は、その中に栄養が凝縮されている。恋の季節に堪能したカモミーユの蜜と比べると物足りなく感じてしまったが、本来は空腹時に口にすると瞬く間にその味の虜になるほど良質なものだ。けれど、わたしはすでに知っていた。

「こちらの世界に蜜飴なんてものは基本的にありません。蜜は私たちと同じような境遇で居場所を失った花の妖精たちから直接いただきます。しかし、花の妖精たちだって無限に蜜を持っているわけではありません。それに、彼らを増やす場所も、環境も今は乏しいままです。せめて、一人の花を一人の蝶が独占できたら良いのですが、現実は一人の花を複数の蝶で分け合う状況です。お腹いっぱい食べる事が、ここでは難しいことなのです」

 ルリジューズの言葉に、わたしは静かに頷いた。キュイエールが前に似たようなことを言っていたことを思い出した。蜜飴の存在は有難く思わないといけないのだと。だが、それだけではない。

「衣服だってそうです。私はこの屋敷に残されていた衣服を身につけることを許されております。しかし、全ての野良妖精が自由に着心地の良い服を着られるわけではありません。一部の心優しい人間の施しに頼らざるを得ない。住む場所だって同じです。結局、私たちの暮らしは人間たちの善意の上に成り立っているのです。もうお分かりでしょう。ここは自由に見えるかもしれませんが、そうでもありません。檻の広さが少し広がっただけ。それも、人々の心変わりでいつ破壊されてもおかしくない状況なのですよ」

 実際にわたしは野良生活などしたことがない。フィナンシエの好意に甘え、安全を約束された場所で当たり前のように暮らしている。せっかく手に入れたこの幸運を台無しにしていいものか。アンゼリカがあれほど欲しがった環境を、わたしは手にしているのに。黙ったまま聞いていると、ルリジューズは続けた。

「人間に愛されていれば、庇護を受けられます。手厚く世話してもらい、衣食住を約束してもらえます。私はその庇護を失ったからここにいるのです。人間に愛されながら天寿を全うした妖精はこれまでもたくさんいました。今は祈り場になっているこの屋敷にいた蝶の妖精もまた、幸せのままこの世を去ったそうです。その妖精の主人の遺言があるからこそ、私たちはここを祈り場として使えるのです。人に愛されさえすれば、良血妖精は幸せになれる。あなたもそう教わってきたでしょう。それは間違ってはいないのですよ」

 ルリジューズの言葉を受けて、わたしは俯くことしか出来なかった。わたしは何も知らなかった。ルリジューズの気持ちも、アンゼリカの気持ちも、分かったつもりでいて分からないまま生きていた。羨ましがられる事情もよく分かる。フィナンシエとの暮らしで不満など抱いたことがないとなれば尚更だ。彼に愛され続けていれば、きっとわたしは幸せになれる。夫婦になったフィナンシエとアマンディーヌの姿を想像し、それをビスキュイと二人で喜ぶ姿を想像することは容易だった。

 けれど、その未来だけを見つめようとしても、ついわたしは違う方向に顔を向けてしまうのだ。それは何故だろう。こうしてルリジューズに諭されていても、わたしの脳裏にはグリヨットがキラキラした目で語っていた未来の話が浮かんでしまうのだ。赤い翅と青い翅の女王を中心に築かれる新しい王国。そこでは蝶の妖精もまた誇り高く生きることが出来る。人間の愛を失うことを恐れずに暮らせる世界。そこには憧れがあった。

 だが、そんなわたしの無邪気さを責めるように、ルリジューズは悲痛な声で語った。

「私は今でも思い出します」

 小さな声を震わせて、ルリジューズは両手を握り締めた。

「名声のままに、当たり前のように恵まれた暮らしをしていたあの頃のことを。この場所がどんなにかけがえのない場所になっても、この思い出や気持ちはどうしても消えません。全て悪い夢だったらと、目が覚める度に思ってしまうのです。そして、苦労や不安がある度に、自分が良血妖精だった頃を思い出してしまうのです。マドレーヌ。あなたはアンゼリカからも同じような話を聞いたはずです。命からがらここへ来た彼女もまた、普通の主人に落札されていたらどんな暮らしをしていたのかと何度も思い描いてしまうと言っていました。それが良血妖精として生まれ、育った者の性でもあるのです。一度その当たり前を知ってしまったからこそ、捨てきることの出来ない苦しみなのですよ」

 わたしは何も分かっていなかった。アンゼリカの事を思い出し、その態度を思い出す。嫉妬を向けられても嫌いになれなかったのは何故か。後ろめたさがあったのは何故か。色々と突き詰めていくうちに、わたしは耐えられなくなってすすり泣いてしまった。わたしが彼女を責められなかったのは、彼女が可哀想だったからだ。可哀想だと思える余裕が、わたしにあったからだ。

 憧れだけの問題ではない。今だって恵まれた良血妖精としての立場で物事を見ることが出来ている。それを当たり前だと思っている。そんな今のわたしが、ルリジューズたちの苦しみを真に理解することは出来るのか。そして、同じ苦しみに耐えることなど出来るのか。

 自分はどうすればいい。どうしたいのだろう。このまま同じような事を繰り返して、フィナンシエの愛を失いたいのか。生半可な思いと覚悟のままに、全てを捨てる勇気が本当にわたしにあるのだろうか。どうしたいのだろう。自分の本意は一体どこにあるのだろう。

「マドレーヌ」

 ぐるぐると回る思考を止めるように、ルリジューズは名前を呼んだ。

「あなたが歩む道を、私が勝手に決めることは出来ません。けれど、これだけはよく考えておいてほしいのです。あなたにとっての幸せの在り処は何処にあるのか」

 その言葉は、わたしの胸にぐさりと突き刺さった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る