6.従順なる血
勝手口が開かないとなると、思い当たる出口はわたし達にとって一つしかない。サヴァランや他の人間たちに呼び止められるかもしれないという恐れよりも、とにかく早く外に出たい一心で、わたしとビスキュイは階段を駆け上がっていった。案の定、地下ですれ違った係員に何度か呼び止められたけれど、その一切をわたし達は無視する形で玄関ホールまでたどり着いた。
どうやら、サヴァランはすでに客席へと戻っていっているらしい。それならば、彼に見つかるかもしれないという恐れは抱かなくていい。息を整えると、すぐにわたし達は正面玄関へと走っていった。そこにだって勿論、人はいる。勝手に侵入してくる人間を防ぐ目的のはずだが、まさか中から外に逃げ出そうという妖精がいるとは思わなかっただろう。わたしとビスキュイが何のためらいもなく外へと出ようとすると、さすがに困惑した表情を見せた。
だが、最終的にわたし達の足を止めたのは、劇場の人間ではなかった。
「ちょっと、二人とも!」
聞き覚えのあるその声に、わたしもビスキュイも思わず振り返ってしまった。そこには妖精がいた。シュセットだ。彼女一人だけで階段の踊り場にいる。そこからあっという間にわたし達の傍まで駆け寄ってくると、行く手を阻むように正面玄関の前へと立ちふさがった。腰に手を当てて、睨みつけるようにわたし達を見つめて来る。
「ここで何をしているの?」
ヴェルジョワーズは一緒ではない。だが、むしろ一緒でないことの方が恐怖を煽ってくる。躾係の夫人を思わせる眼差しで睨まれると、答えに詰まってしまった。どんな上手い言い訳であっても彼女には通用しないのだろう。しかし、沈黙したままというのもバツが悪い。一人で焦っていると、ビスキュイが先に口を開いた。
「シュ……シュ、シュ、シュセットこそ、どうしたのさ」
かなり怪しい口ぶりだったが、言葉すら出ないわたしよりはマシというものだ。
「どうしたの、じゃないでしょう! あなた達を捜しに来たの。フィナンシエ様もアマンディーヌ様も心配なさっているわ。いったいどうしてこんな所に──いいえ、理由なんてどうだっていい。早く帰りましょう」
そう言ってシュセットは無理矢理こちらに向かって歩みだしてきた。どうやら、牧羊犬か何かのようにわたし達を二人まとめて追い込むつもりらしい。追い立てられて、わたしはまずビスキュイと視線を合わせた。わたしも、ビスキュイも、黙って追い立てられる羊ではないのだ。タイミングを見計らうと、わたし達は一斉に駆けだした。左右に分かれてシュセットの横を通り過ぎると、そのまま扉を開けて外へと飛び出した。
「ちょっと!」
シュセットが悲鳴のような声をあげ、追いかけてきた。さすがに見過ごせなかったのか傍で待機していた人間たちも近づいてくる。だが、外まで追いかけてきたのはシュセットだけだった。シュセットは意外と足が速いらしい。すぐに追いついてきて、わたしの肩をぎゅっと捕まえてきた。
「いたい……」
思わず声をあげると、シュセットは怒鳴るように言った。
「痛いじゃない! 何をしているの、ビスキュイも止まりなさい!」
鋭い声で言われ、先を走っていたビスキュイがすごすごと戻ってくる。どうやら納得に行く説明でも出来ない限り、シュセットから逃げることは不可能らしい。ならば、今のわたしに出来ることは一つ。
「ビスキュイ! 止まらないで!」
必死に叫ぶと、シュセットが動揺するのが分かった。
「先に行って! わたしも後から行くから!」
わたしの言葉にビスキュイは狼狽えつつも、そのまま駆けだしていった。
「ビスキュイ!」
シュセットの呼び声は通用しない。さあ、あとはわたしが彼女から逃げるだけ。
「お願い。放して!」
訴えるも、シュセットは必死になって首を振った。
「駄目よ、マドレーヌ。あなただけでも引きずって戻らないと。何があったのかは知らないけれどね、外には怖い肉食妖精がいるのよ!」
「その肉食妖精の事で、行かないといけないところがあるの!」
こちらも負けじと吠えるように訴えるも、シュセットは呆気にとられた表情のままわたしの肩をぎゅっと掴んだ。
「あなた、何を言っているの……?」
「今行かないと、一生後悔してしまうかもしれないの。野良妖精たちに危険を知らせに行かないと!」
「駄目だったら!」
シュセットはより大きな声で叱り飛ばしてきた。その厳しい口調に、わたしは思わず怯んでしまった。ペシュの血筋らしいキツい表情と威圧がそこにある。あるにはあるが、彼女の口から飛び出したのは、自尊心の塊と呼ばれる彼女の品種らしからぬ言葉だった。
「マドレーヌ、忘れてしまったの? わたし達はね、良血妖精なの。人間の為に生まれて、人間の為に生きているのよ。彼らを裏切るようなことはしてはいけないの。従順なフルールの血筋のあなたなら、わたしよりもずっとよく分かっているはずでしょう?」
「分かっている、分かっているけれど。でも!」
「でも、じゃない!」
どうやらシュセットは引きずってでも連れ戻す気らしい。それならば、わたしだって全力で反抗するしかない。従順な血筋と呼ばれようとも、その評価に傷がついたとしても、今のわたしには些細なことでしかなかった。肉食妖精への恐怖も、人間を裏切ることへの恐怖も、今のわたしにはどうだって良かった。それよりも、何も伝えられないまま、ヴァニーユにグリヨットたちが傷つけられる方が怖い。その強い思いが力となったのだろうか。揉みあう内に、わたしはシュセットの手から逃れることが出来た。
後ずさりをすると、シュセットは焦りつつもそれ以上追いかけて来ることをためらった。どうやら劇場からあまりにも離れることはさすがに怖いらしい。ペシュの血筋とフルールの血筋。その違いはいつだってはっきりと感じるものなのだけれど、この度は血筋とは関係のない違いがよく分かった。
「必ず戻ります。フィナンシエ様にはそう伝えて」
そう言い残し、わたしはビスキュイの去っていった夜の町へと駆けていった。シュセットがわたしの名前を呼んでいる。けれど、振り返ることはもうしなかった。
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