8.花たちの代弁者

 ババは美しくも逞しい妖精だった。野良の一角獣と名乗っていただけあって、その腕っぷしの強さに期待を寄せる妖精は多く、その期待に応える形であらゆる仲間たちの危機を救ったこともあった。そんな彼が命を奪われたという事態は、妖精たちの心を抉っていた。

 特にグリヨットの落ち込みようは酷かった。彼女にとってババは孵化して以来ずっと兄のような存在だったという。自分一人で解決できないことはババに相談し、解決してもらったこともあった。そんな頼れる兄が突然、殺されたのだ。落ち込まないはずがない。泣きじゃくるグリヨットをどうにか落ち着かせようと、ノワゼットとルリジューズは彼女を祈り場の奥へと連れて行った。他の者達もまた、会議やらなんやらで慌ただしく移動していき、エントランスにはわたしとヴァニーユだけが取り残された。

 前にも来た時も、ヴァニーユと過ごした時間があった。そう、あの時、ババは元気だったのだ。アンゼリカの死を共に悼むことが出来ていた。そして帰りもまた、ビスキュイともどもババに送り届けてもらったのだ。あの日の事を思い出すと、喪失感が遅れてやって来た。あの時のお礼はもう言えないのだ。冗談めいたことを言って、わたし達を楽しませてくれる事はもうない。そう思うと、酷く胸が痛んだ。

 シトロンは、どうしているのだろう。捕まっているのだろうか。人間に、或いは、お腹がいっぱいの捕食者に。まだ生きていると信じたい。けれど、どうしても悲観してしまうのはきっと、これ以上、傷つきたくないからなのかもしれない。期待を裏切られることを恐れているからなのかもしれない。黙ったまま溜息を吐くと、少し離れた場所で外を見つめていたヴァニーユが、わたしをそっと振り返った。

「マドレーヌ様、大丈夫ですか?」

 問いかけられて頷くと、ヴァニーユは少し安心したような表情をして、こちらへ近寄ってきた。わたしの隣に座ると、その柔らかな手でそっと手を握ってきた。触れられると思いがけず動揺してしまった。対等に接してはいても、彼女は蝶ではなく花。蜜の香りはせずとも、その立ち振る舞いも、見た目も、カモミーユによく似ていた。そんなわたしの下心など微塵も気づかずに、ヴァニーユは言った。

「こんな状況にも関わらず、恐れることなく大事な報せをもたらした。あなたの事をわたくしは尊敬しております」

「そんな事……」

 呟くわたしにヴァニーユは首を振る。頭に浮かぶのは木槍を手に勇ましく飛び回るフランボワーズの姿だった。ジャンジャンブルが止めようとしていた通り、確かに危なっかしいのかもしれない。けれど、わたしにはあの強さと勇気が羨ましかった。

「わたしには戦う勇気がないもの」

 静かにそう言うと、ヴァニーユはわたしの手を握ったまま言った。

「いいえ、そんな事ありません。だってあなたの勇気にこうして助けられたのも二回目ですもの。いずれもクレモンティーヌ様の判断の役に立つことでしょう。それはつまり、わたくし達のような根無し草の命に直結することなのです」

 ヴァニーユは真面目な表情でそう言うと、不意に微笑みかけてきた。

「マドレーヌ様、あなたはご存知ないでしょうけれど、あなたのお噂は、蝶のお方々に大事に守られている花の妖精たちにも伝わっております」

「花の妖精たちに?」

 問い返すと、ヴァニーユは笑顔で頷いた。

「わたくしと違って蜜の出せる年頃の花たちは、その分、人間たちに見つかる危険性も高く、それはもうビクビクしながら暮らしているのです。もしも、蝶のお方々が人間にやられてしまう事があったら、滅んでしまうのはわたくし共もまた同じ。だから、共に新しい王国に連れて行って貰うまでは、物陰に隠れてひたすら祈ることしか出来ないのです。そんな彼らにとって、あなたのご活躍の話は眩いほどの希望の光なのですよ」

 ヴァニーユは微笑みを浮かべ、カモミーユに似た赤い目でわたしを見つめてきた。

「花たちは、あなたに会いたがっております。わたくしのように隠密が出来る者以外は、美味しい蜜を捧げることが自分たちに出来る事。あなたにも直接会って、蜜を捧げたいと望む者もおります」

「蜜を……」

 思わぬ言葉に息を飲んでしまった。思い出すのは恋の季節で口にした花の妖精たちの蜜だ。味自体は普段口にしている蜜飴と何も変わらない。それでも、そこに花の妖精がいるというだけで、魅惑は全く違う。沸き起こる欲望を必死に抑え、わたしは冷静さを装っていた。しかし、ヴァニーユにはお見通しなのかもしれない。目を細めながら、彼女はわたしに囁いてきた。

「もしかしたら、普段、あなたが口にしている蜜飴の方が上質かも知れません。けれど、蝶のお方々に身体を捧げることしか役に立てない花たちにとって、とても大事なことなのです。もしも、彼らを想ってくださるのであれば、どうか、わたくしと共に会いに行ってはいただけませんか」

「……今から?」

 期待と不安を込めて訊ね返すと、ヴァニーユは黙って頷いた。どうしよう。わたしはどうするべきだろう。緊張しながら考えていると、ヴァニーユは穏やかに微笑んだ。

「もちろん、後日でも構いませんよ」

 何と答えるべきだろう。完全に頭の中が真っ白になってしまっていたその時、「そうね。後日の方がいいかもしれない」と、わたしの代わりに返事をする者は現れた。我に返って顔をあげてみると、廊下からノワゼットがこちらを見つめていた。少々険しい顔をしている。

「マドレーヌ」

 生家の教育係の夫人を思い出させる口調でわたしの名を呼び、ノワゼットは言った。

「ルリジューズが呼んでいるわ。ちょっとお話があるのですって」

 その声の鋭さに、蜜への欲望はすっかり消えてしまった。

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