6.人間たちの想い

 サヴァランが満足して帰っていくと、急に屋敷の気温が下がった気がした。これから先、わたしを待ち受ける未来の事を想うと震えが止まらない。生きるか死ぬかがはっきりと分かれてしまう事だけに、わたしの力では何もできないことが怖くて仕方なかった。

 しかし、わたしは間違っていないはず。何も間違ったことはしていないはず。食べられたくないから抵抗した。その結果、ヴァニーユを傷つけたかもしれないが、それならわたしだって傷つけられた。このことを冷静に話せばいいのだろうか。何度話せば人々は分かってくれるだろう。考えれば考えるほど足元がぐらつくような絶望を感じてしまった。

「マドレーヌ、大丈夫かい」

 フィナンシエに静かに声をかけられ、わたしは俯きつつあった顔を慌ててあげた。愛すべき主人の顔はいつにも増して青ざめていた。そんな彼の目を見つめるわたしの顔も、きっと青ざめているだろう。それでもどうにか意識を保ち、わたしはどうにか返事をした。

「──はい、平気です」

 すると、フィナンシエはわたしの肩を抱きながら、視線を合わせてきた。

「怖がることはない。君を手放す気は一切ないのだから。裁判になったにせよ、何人たりとも私から君を引きはがすことなんて出来ないはずだ。だって君は嘘を吐いていないのだから、そうだろう?」

「勿論です!」

 わたしは必死に頷いた。するとフィナンシエはそっと笑った。だが、すぐに真剣な顔に戻った。

「いい返事だ。この先、何があってもその主張だけは絶対に続けるんだよ。だが、約束してくれるか。しばらくはここから離れず、じっとしていてくれると。でないと、話し合いが不利になってしまうかもしれないんだ」

 深刻なその言葉に、わたしはたじろいでしまった。今回ばかりはどうあっても約束しなければ。自分の命だってかかっている。人間たちの世界は複雑だ。フィナンシエは資産も身分も申し分ない立場にいることは間違いないはずだけれど、時には彼の希望が通らないことだってある。社会が味方してくれない限り、彼の力だけではどうしようもない事だってあるのだ。

 忘れてはならない。人間と妖精は対等じゃないことを。少なくともこの太陽の国で暮らしている限りは、それを前提として暮らしていることを、絶対に忘れてはならない。良血妖精の価値もまた同じ。どんなにお姫様のように扱われたって、わたし達は人間に愛されてこそ存在価値があるのだ。それをはき違えてはいけない。

 脳裏に浮かぶのは、歌劇場で目にしたシュセットの驚いた顔だった。自尊心の塊と称されたその血筋でさえも、当然のように勝手な行動をするわたし達のことを、心底理解できないといった表情を浮かべていた。

 わたしはフィナンシエを見上げて、求められているたった一つの返事を口にしようとした。だが、開きかけた口からは、どうしても言葉が出なかった。どうしてだろう。服の裾を握り締め、わたしは再び俯いた。返事をするだけでいい。大人しくしていますと、ただ一言誓えばいいだけだ。わたしだって死にたくはない。サヴァランなんかに引き取られたくない。彼とヴァニーユの悪趣味な楽しみのためだけに殺されるのは御免だ。それなのに、わたしはどうしてもフィナンシエの期待する返事が言えなかったのだ。

「マドレーヌ……」

 フィナンシエは言った。

「頼むから返事をしておくれ。あるいは、何か言ってくれ。不満があるのなら、正直に言えばいい。改善するために努力しよう。お友達が心配なら、私たちに任せて欲しい。君が動くことはないんだ。だから、頼むよ……君を失いたくないんだ」

 彼の言葉に心が震えた。やっぱり、わたしは恵まれている。ルリジューズが、アンゼリカが失ったものを持っている。わたしも、ビスキュイも、良血妖精として恵まれた暮らしが約束されているのだ。そんなわたし達が深く関わろうとするのは罪なのだろうか。身勝手なことなのだろうか。分からない。ただ人間に愛されるためだけに生まれたわたしには、難しすぎる問題だった。

 ずっと黙っていると、フィナンシエはため息を吐いた。そして、やや苛立ちを滲ませながらキュイエールの名を呼んだ。キュイエールが駆けつけると、彼は口早に命じた。

「マドレーヌとビスキュイを頼む。そろそろ寝る時間だ」

「かしこまりました」

 フィナンシエの不機嫌さを重く見たキュイエールはすぐさまわたし達の背中をまとめて押した。無理矢理歩かされながら、わたしはそっとフィナンシエを振り返った。彼の表情は浮かない。明らかに憂鬱そうな顔をしていた。サヴァランとの関係悪化が彼にとってどんな悪影響を及ぼすのか、わたしには想像もつかなかった。彼にそんな表情をさせてしまうなんて、わたしはやっぱり良くない妖精なのかもしれない。とぼとぼと歩いていると、長い廊下の道端でふとキュイエールが囁いてきた。

「マドレーヌ……」

 潜めた声は恐らくフィナンシエたちには届かないだろう。

「あなたの気持ちは少しだけ分かる気がするわ」

 彼女はそう言った。

「でも、ここはぐっと堪えて旦那様に従って。でないと、本当にあなたを守れなくなってしまうかもしれない。そうなるのは、わたしだって嫌よ。あなたには幸せでいて欲しいから」

 その言葉にわたしは静かに俯き、そのまま頷いた。周囲の人間たちはこれほどまでに優しい。その優しさが身に沁みると同時に、わたしはふと思い出してしまうのだ。人間の愛を殆ど知らずに過ごしている仲間たちの事を。そして、わたしもまたちょっと足を踏み外したらそんな状況になりかねないことを。

 罪悪感と、不安とに囲まれた状況で、わたしは再びビスキュイ共々部屋に押し込まれてしまった。

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