10.ある修道蝶々の不幸

 修道蝶々という存在は、蝶の妖精たちが戦利品として太陽の国に連れ去られた当初から、一定の注目を浴びていたという。黒髪に青空の目。さらにその当時は黒い蝶の翅も特徴的で、あらゆる祈りを捧げるという役目もまた人間たちに大いに気に入られ、蝶の王国が滅んでからもその血と役目が絶えることはついになかった。祈る相手やその口上は太陽の国の人間向けに変えられてしまったが、新たに束ねられた修道蝶々の一族は、祈りを引き継ぐ若い蝶たちに対し、秘密裏に王国由来の祈りを口伝していったらしい。

 ルリジューズもそんな一族のもとに誕生した。卵から孵化した時点で容姿は美しく、修道蝶々たちの血統管理をしている祈り屋の人間たちは、稼ぎ頭として早いうちから期待して、より一層厳しく仕込んだのだという。ルリジューズを含む良血とされる修道蝶々たちのその背に黒い翅はもうない。エクレールの血は修道蝶々たちにも影響を及ぼしていた。それに、母系もまたミルティーユ由来のものだけになってしまった。

 ルリジューズ自身もわたしと同じフルールの母系で、従順さが尊ばれていた。もしも彼女が修道蝶々の祖先たちからその特徴を受け継いでいなかったとしたら──つまり、わたしのように栗毛や菫色の目を持って生まれていたら、愛玩用となっていたのかもしれない。しかし、そうではなかった。父系と母系は残らずとも、修道蝶々の祖先から受け継いだ真っ黒な髪と青空の目はまさに祈りに相応しいものだったのだ。

 ルリジューズが羽化してその美しさに磨きがかかると、祈り屋の人間たちは彼女をいよいよ重宝するようになっていた。わたしもまた彼女の祈りに直接触れたからこそ理解できることだが、人間のもとで飼われていた頃からルリジューズの祈りは特別だった。婚礼で、あるいは葬儀で、はたまたその他の行事の中で、ルリジューズの祈りに触れた人間たちの多くがその虜となったという。

 彼女の評判は瞬く間に広がり、人気に火がついた。名指しされることも多くなっていく。たまたまルリジューズの主人となった祈り屋は鼻高々で、ルリジューズを人間の女性のように扱ったという。

 人気になることは決して悪い事ではない。あらゆる場面で祈りは必要だし、そういう場は大抵の場合、一生の思い出にしなければならないものだった。そんな特別な席で特別な祈りの時間を生み出せるルリジューズは、人間たちにとって欠かせない存在だったのだ。それに、名声が得られれば得られるほど、暮らしも待遇も良くなった。ルリジューズ一人の問題ではなく、ルリジューズと同じ頃に生まれ、育てられた兄弟姉妹を始めとした一族たちもまた、人間たちに優遇されていく。間違いなく、誰にとっても、ルリジューズは役立つ存在だったのだ。

 しかし、順風満帆だったルリジューズの運命の歯車は、ある日突然狂い始めた。そのきっかけは、とある貴婦人の葬儀の席だったという。喪主から依頼を受けると、ルリジューズはいつものように故人とその遺族のために祈り、最後の思い出を美しく飾るその役目を懸命に努めた。厳かに執り行われた葬儀だったが、ルリジューズを連れてきた祈り屋の評価は高く、いつものように高い依頼料を貰って終わりのはずだった。

 しかし、狂った歯車は、そこからとんでもない運命をルリジューズにもたらした。喪が明けた頃になって、祈り屋のもとにある男が押し掛けてきた。彼は喪主の息子だった。つまり、亡くなった貴婦人の孫にあたる。葬儀の苦情なのではないかと怯えつつ応対した祈り屋に対し、彼は思ってもみなかった申し出をしてきたそうだ。

 ──金ならいくらでも払う。ルリジューズを譲ってくれ。

 とりあえず、と、提示された金額は、ルリジューズの本来の評価額の何倍もするものだった。恐らくは、予め協会に問い合わせて確認していたのだろう。だが、評価額など関係ない。祈り屋の人々にとってルリジューズはもはやただの修道蝶々ではなくなっていた。彼女の祈りがなくなれば、ただの祈り屋に成り下がる。一度、名声を手にした人間たちにとって、それは避けたいことだった。稼ぎ頭を手放すわけにはいかないと、祈り屋は男の申し出を断った。しかし、男はしつこかった。金額の問題ではないとどんなに伝えても、食い下がってくるのだ。そのあまりに必死な様子に、祈り屋はとうとうその理由を訊ねた。すると、男は辛そうに告白したという。

 ──どうしても忘れられない。手元に置いておきたいのだ。

 彼だって元々は善良な一般市民であった。ルリジューズが手に入らないことなど分かり切っていたからこそ、市場で売られる良血妖精たちや、誰かに手放されたり、捕獲されてしまったりして収容所行きとなった妖精たちを漁るように確認したという。しかし、ルリジューズの代わりになるような妖精などいなかった。やがて、男は悟った。ルリジューズに似ている妖精などではなく、ルリジューズでないと駄目なのだと。

 人間が妖精に恋をするという話は珍しいことではない。実際に本物の夫婦のような絆で妖精と結ばれる人間はいるらしい。それに、おとぎ話の域ではあるが、人間が妖精に我が子を産ませたり、人間が妖精の子を産んだりするという話だって存在する。しかし、だからと言ってそのような理由でルリジューズを渡すことなど祈り屋の者達には出来なかったそうだ。ルリジューズが生涯稼いだはずの金額を渡すと言われても、それを簡単に信用して売り渡すなんてどうして出来るだろう。

 祈り屋の主人は困り果てた。だが、やはり渡すことなど出来るはずがない。押し問答の末に、強い口調で断って、半ば無理矢理追い返してしまったのだという。事件が起きたのは、それから数日経った頃のことだった。

「あるお方の結婚式の最中でした」

 ルリジューズは語る。

「とても華やかで美しい式でした。若き二人の愛が永遠のものとなるように祈るその場に呼ばれたことを光栄に思うほどに美しかった。私はいつも以上に厳かな気持ちで主役である二人の愛を祝福しました。……けれど、その会場に彼は紛れ込んでいたのです」

 姿を見せたその時、ルリジューズの目には刃物が見えたという。彼はそのまま会場をうろつき、悲鳴の中で暴れまわっていた。ルリジューズはその中で、青ざめた主人の姿を見つけたという。とっさの判断でルリジューズは主人を庇おうと移動した。妖精として、敬愛する主人の命は守らなければと思ったのだ。

 だが、彼女は知らなかった。その男の目的が自分自身であったことを。彼はルリジューズを見つけるとそのまま追いかけてきた。そして、多くの人々が見ている中で何度も斬りつけ、両目を潰してしまったのだ。激しい痛みと恐怖の中にルリジューズは倒れ、主人に支えられながらどうにか意識を保っていたという。その後は主人の手の温もりと、周囲の音だけが彼女の世界の全てとなった。男はどうやらすぐに取り押さえられ、程なくして妖精医が呼ばれてルリジューズは手当を受けることとなった。そして、どうしてこのような事が起こったのかをルリジューズ自身が知ったのは、騒動がある程度収まってからのことだった。

 損害は男の財産から賄われたが、この事件は同業者および修道蝶々たちを震え上がらせた。ルリジューズの主人は怒りのままに重罰を望んだというが、この事件で傷つけられたのは妖精であるルリジューズただ一人であったことが、男の罪をだいぶ軽いものにしてしまった。どんなに訴えても、妖精一人の命は人間の半分にも満たない。その上、死んでいないのだから、と、男はすぐに釈放されてしまった。

 この時点で、ルリジューズは稼ぎ頭の地位から転落していた。潰された目をたとえ仮面で隠したとしても、彼女を望む男がいる限り、安心して祈りの場を任せることなど出来ない。懇意にしていた依頼者たちも、ルリジューズは呼ばないでほしいとわざわざ申し出るようになり、彼女の仕事はなくなった。

 そこへ再び現れたのが、あの男だったという。

 ──使い物にならなくなったあの蝶を売ってもらおう。

 だが、祈り屋の主人は屈しなかった。ここで折れたりすれば、第二第三のルリジューズが必ず生まれてしまうだろう。欲しければ傷つけてしまえばいいという前例を作るわけにはいかなかった。同時に、祈り屋の主人は分かっていた。彼は簡単には諦めない。手段を選ばない。そんな彼が諦めざるを得なくなる方法は何か。さんざん考えた彼が下した決断は、ルリジューズを収容所送りにするというものだったのだ。

 血も残さず、死体も残さない。ルリジューズという存在自体をこの世から消し去ってしまう事こそが、その男への罰として相応しいと考えたのだ。

「あの時、私はそれを受け入れました」

 ルリジューズは淡々と語った。

「受け入れることが、良血妖精として正しいのだと思っていたからです。しかし、いざとなると死ぬのは怖かった。収容所の職員が引き取りに来るまでの間、納屋の中で震えていたのです。そんな時に、助けに来てくれたのがグリヨットたちだったのです」

 好奇心旺盛なグリヨットは、それ以前からルリジューズの評判を知っていて、事あるごとに彼女に祈ってもらいに来ていたという。事件が起こった後も、傷の痛みで苦しむルリジューズを勇気づけに来ていて、その最中、ルリジューズを取り巻く事件の事も詳しく知ったのだ。真相を知り、計画を知って、あのグリヨットが放っておくはずもない。すぐに彼女はババたちに相談し、ルリジューズを救い出すための行動に出た。その活躍があったお陰でルリジューズは収容所の職員が来る前に逃げ出すことに成功し、野良妖精たちの仲間入りを果たしたのだ。

「良血妖精としての誇りと名声は、全てあの納屋に置いて来ました」

 ルリジューズは言った。

「私はそれを有難く思っております。ここでかつてのように祈りの仕事をさせて貰っている事は、幸せに他なりません。けれど、マドレーヌ。あなたにはお教えしましょう。そうであっても私は、やっぱり恵まれていた頃のことを忘れられないのです」

 そして、ルリジューズは赤裸々にその思いの内を語った。

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