9.愛すべき主人たち

 わたしはこの脱走劇を後悔していない。あのまま何も知らずにカモミーユの死に嘆き、手探りで弔いながら気を紛らわせているよりも、本物の妖精の為の祈りを知れただけでも収穫は大きかったと思っている。しかし、その確固たる自信があったとしても、フィナンシエの屋敷に戻る時には多大な緊張感と恐怖に見舞われた。

 ビスキュイが一緒でなければ、わたしは一日中この広い庭園の隅に身を隠していたかもしれない。しかし、それも不可能だった。フィナンシエの屋敷の庭には優秀な嗅覚を持つ番犬が何頭も飼われていて、グリヨットに連れられて庭に入ってくるなり、けたたましく吠えだしたからだ。グリヨットがその騒ぎに怯え、茂みの中で身を伏せた。わたしはとっさにグリヨットに声をかけようとした。だが、その前に、大きな声が聞こえてきた。

「マドレーヌ? ビスキュイ?」

 フィナンシエだ。遅れてアマンディーヌの声も聞こえてくる。二人ともだいぶ焦っているようで、わたしはすぐに罪悪感に苛まれた。隣に立つビスキュイがぎゅっと手を握ってくる。その温もりに感謝しながら、わたしは声のする方向をじっと見つめた。ややあって、犬たちを連れた使用人がわたし達を見つけ、大声でフィナンシエたちを呼んだ。その声があってから程なくして、フィナンシエたちは駆けつけてきた。その青ざめた顔に、わたしは戸惑ってしまった。二人のこんな姿は見たことがなかった。

「ああ……ああ……ここにいたのか」

 フィナンシエがぜえぜえと息を切らしながら言った。

「一体、何処にいたんだい? 姿が見えないものだから、庭園中を探していたんだよ」

「すみません」

 わたしは静かに謝った。謝りながら、いったいどれだけ語って良いのかを自分の中で今一度確かめていた。しかし、その最中に、わたしはビスキュイ共々アマンディーヌに抱きしめられてしまった。彼女の甘い香水の匂いに包まれると、少しだけカモミーユのことを思い出してしまい、感傷に耽ってしまう。

「何処に行っていたの? 何度も呼びかけたのに返事もしないなんて」

 アマンディーヌに囁かれ、わたしもビスキュイも返答に困ってしまった。何と言い訳をすればいいだろう。言えることはただただ「ごめんなさい」のひと言だった。しかし、それで二人が納得するとも思えない。わたしはすっかり困惑してしまった。だが、その時、傍にいた犬たちが再び吠えだした。茂みに向かって吠えている。その様子を茫然と見つめ、わたしは我に返った。グリヨットだ。グリヨットの気配を嗅ぎつけて吠えているのだ。何とか誤魔化そうとする前に、フィナンシエが首を傾げてその茂みを見つめた。

「誰かいるのか?」

 その問いに答えるように、グリヨットは立ち上がった。図太さのある彼女ならば或いは、と振り返ってみたのだが、その表情にわたしはますます焦ってしまった。グリヨットは明らかに怖がっていた。吠え続ける犬が怖いのか、間近で見る人間たちが怖いのか、その両方か、これまでの堂々とした態度とは裏腹に、今にも腰を抜かしてしまいそうなほど緊張していたのだ。彼女の姿を見て、アマンディーヌがフィナンシエを振り返る。彼女の視線にフィナンシエは頷き、やや声を和らげてグリヨットに話しかけた。

「君も……妖精だね? マドレーヌたちのお友達なのかな?」

 フィナンシエの声はとても優しかった。怖がらせないようにしているということが痛い程よく分かる。けれど、それにも関わらず、グリヨットはまだ恐れているようだった。ヴェルジョワーズの屋敷ではあれほど堂々としていたのに、声をかけられているせいだろうか。

「フィナンシエ様、あの……」

 わたしはすぐにグリヨットを庇おうとした。けれど、上手い言葉が出てこなかった。ビスキュイもまた何か言いたそうにしていたものの、言葉が出てこない。そんなわたし達を抱きしめながら、グリヨットに声をかけたのがアマンディーヌだった。

「どうか怖がらないで」

 グリヨットの顔を見つめ、優しく微笑んでいた。

「虐めたりしないわ。この子たちと一緒に遊んでくれていたのでしょう?」

 彼女の言葉もまただいぶ優しい。二人を心から信用しているわたしにとってみれば、何処に怖がる要素があるのかさえも分からない。けれどそれはきっと、良血蝶々として当たり前に愛されているからこその感覚なのだろう。グリヨットは息を飲むと、服の裾をぎゅっと掴んだ。緊張で背中の小さな翅が逆立っているのか、先ほどよりも丈が短くなっている気がする。

「おいで。お礼がしたいの。お腹は空いていない? おいしい蜜飴をあげましょうか」

 しかし、アマンディーヌが立ち上がった途端、グリヨットは目を見開いた。まるで恐ろしい猛獣にでも鉢合わせたように震えだし、一歩、二歩と後ろに下がってしまった。そのまま緊張状態がしばし続いた後、やがて、グリヨットは思い出したように身体を震わせ、そのままくるりと背中を向けて木々の向こうへと逃げていってしまった。フィナンシエもアマンディーヌもじっとそれを見送った。追いかけたりはせずに、ただ憂いを帯びた表情でグリヨットの消えた茂みの向こうを見つめ続けていた。

「行ってしまったね」

 フィナンシエが呟くと、アマンディーヌもまたため息交じりに頷いた。

「仕方ないわ。きっと生粋の野良だったのよ。怖い思いも一杯してきたのでしょう」

 そう言って、アマンディーヌはふとわたし達を見つめてきた。腰に手を当てて見つめられ、その眼差しだけでわたしもビスキュイもすっかり畏縮してしまった。

「色々聞きたいことがあるけれど──」

 そう言ったフィナンシエもまたわたし達を見つめている。わたしには「ごめんなさい」以外の言葉がない。その上、彼らが求めるような反省も出来ていないのだから、言い訳しようがない。ただ目を合わせることが出来ずに俯いているわたし達に、アマンディーヌもやや厳しめの口調で言った。

「語り聞かせないといけない話もいっぱいあるわね」

 けれど、わたしが想像していたよりも、この二人の人間は、だいぶ甘い人々だった。

「……けれど、今あなた達に言うべきことはこれだけよ」

「おかえりなさい」

 アマンディーヌとフィナンシエにそう言われ、わたしもビスキュイも思わずその顔を見上げてしまった。優しく包み込むような二人の表情に、わたしはますます罪悪感を覚えてしまった。

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