2.花の妖精

 ビスキュイと会える楽しみが半月もないと知らされると、わたしにとっては非常に退屈な時間が一日、二日と過ぎていった。半月といえば十四日。この二日の長さを考えると、本当に耐えられるか疑問になる。毎日とは行かなくとも、週に何度か会えた環境が変わっただけでもわたしにとってはストレスだった。けれど、三日目にフィナンシエの屋敷を訪ねてきた客人と顔を合わせた途端、そんな退屈さなんてどうでも良くなるほどの衝撃を受けた。

 客人の名はシャルロット。アマンディーヌの紹介でやってきた花の妖精のブリーダーであった。ヴェルジョワーズよりも恐らく年上だろう。気品のある婦人で、年相応の美しさがある人物だった。だが、わたしが注目したのは彼女ではない。彼女の連れてきた、真っ白な妖精だった。

「名前はカモミーユというの。恋の季節の蝶の扱いには慣れているわ。話を聞く限り、この子が適任じゃないかと思っているのだけれど……まあ実際のところは試してみないと分からないのですけれどね」

 カモミーユ。その名を頭に刻み、わたしはその白い妖精を見つめた。背丈はわずかにわたしよりも高く、大人びた顔をしている。きっとわたしよりも少し年上なのだろう。だが、年齢では片付けられない色気が彼女にはある。これが、花の妖精というものなのかもしれない。ぼんやりと一人で納得していると、フィナンシエが声をかけてきた。

「マドレーヌ」

 我に返り、フィナンシエを振り返ると、彼はこう言った。

「カモミーユにちょっと触れてごらん」

 恐る恐るシャルロットの方も窺ってみれば、促すように頷かれてしまった。命じられるままにわたしはカモミーユに近づいた。だが、近づいただけで甘い香りに包まれてしまい、わたしは再び惑わされてしまった。

 花の妖精が何者なのか、全く学ばなかったわけではない。いつも食べている蜜飴は、花の妖精の身体が生み出す蜜を、人間たちに使役される蜜蜂の妖精の力を借りて加工したものなのだと聞いたことがある。こんなにも美味しい蜜が他の妖精の身体から生まれるなんて不思議でたまらなかったが、今ならそれが紛れもない真実なのだと理解できた。触れるなんて畏れ多い。白い身体は繊細に見えたし、その内に秘めたる蜜の魅惑はとても危険なものに感じてしまった。

 あまりにもわたしが臆病だったからだろう。やがてカモミーユは顔をあげてシャルロットと視線を合わせ、無言で頷くとそっと手を伸ばしてきた。真っ白なその手で頬を触れられると、ただでさえ恋の季節で敏感になっている肌がざわついた。

「どうか怖がらないで、マドレーヌ様」

 甘い声で囁かれると途端に夢見心地になってしまう。

「わたくしで宜しいかどうか、確かめてくださればそれでいいのです」

 それだけのことが今のわたしには難題に感じるのだが、きっとカモミーユには理解できないのだろう。わたしは震えながらカモミーユと向き合っていた。こんな事は初めてだ。欲望が心身の中で渦巻いている。立っているだけで精一杯で、堂々と触れて確かめるという事すら怖かった。これで人間たちの視線がなかったらどうなっていたことか。そんな可能性が頭の中にちらつき始めた頃、溜息交じりのシャルロットの声が背後から聞こえてきた。

「しばらく二人きりにしておいた方がいいわね。マドレーヌのお部屋は──」

「あ、ああ、すぐに案内します」

 フィナンシエがそう言って立ち上がると、シャルロットはすぐにわたし達の間に割り込んできた。カモミーユの手に触れると、言葉もなく何かを促す。わたしがそのやり取りにすら目を奪われていると、フィナンシエが近づいてきて背中にそっと触れてきた。

「さあ、行こうか」

 小さく言われ、わたしはこくりと頷いた。移動している間、わたしはカモミーユの香りを何度も確かめながら、薄々とこの先の不安を感じていた。二人きり。確かにそう言った。人間たちも、とんでもない事を言い出すものだ。きっと蝶の妖精じゃないから気持ちが分からないのだろう。人間たちの視線があったお陰で越えてはならない一線というものを自覚出来たのに、二人きりにされてしまったらどうなってしまうのだろう。カモミーユの姿が視界にちらほら入る度に、わたしは息を飲んでしまった。ずっと見ていたい気持ちと、逃れたい気持ちが同居している。ただ単にカモミーユの存在が芸術的な面で琴線に触れるのではなく、自分の中に眠っていた何かしらの欲望が彼女を欲しているのだと自覚すればするほど、これまでに培った理性がそれを咎めようとしてくるのだ。

 今のわたしにとって、カモミーユはまさに誘惑の果実に等しかった。だが、人間たちは呑気なもので、そんなわたしとカモミーユの危険に気づきもしない。どうやら有無を言わさず、わたし達は二人きりにされてしまうらしい。それに異を唱えるような躾はなされていない。おそらくカモミーユもそうなのだろう。シャルロットたちの方針に疑いすら抱いていないようだった。

 そうこうしているうちに、わたしの部屋へとたどり着いた。惨劇の舞台にならないことを祈りながら、命じられるままにわたしは部屋に入り、カモミーユを迎え入れた。

「しばらくしたら、また迎えに来ましょう」

 シャルロットの言葉にフィナンシエは頷き、わたしに言った。

「お客さまを大事にね、マドレーヌ」

 その言葉にぎこちなく頷き、同時に救いを求めるような視線を送った。だが、我が主人の鈍い感性にはそのメッセージも届かなかった。

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