11.命懸けの取引
暗闇の中で無理矢理手を引かれ、わたしはグリヨットを振り返った。地面に転がっている彼女はぴくりともしない。手当が必要だ。しかし、手当をする時間なんて、今のヴァニーユがくれるはずもない。わたしの手を引いて、ヴァニーユは路地裏を彷徨っていた。いつも通るような道ではなく、今まで行ったこともないような道を易々と辿っていく。その先で待ち受けている人物が誰なのか、彼女は言った。
「あなたが食べられる光景を見たいお方がいるの。アンゼリカも本当はそうするはずだった。あの子はその為に存在していたはずなの。それなのに、あの子は生意気にも逃げ出して、わたしもまた連れ帰るという役目を果たせなかった。だから、償わないと。同じ価値のあるあなたを、本来はあの方が手に入れるはずだったあなたを連れ帰らないと。あの方を楽しませてあげないといけないの」
「サヴァラン様の……こと?」
息を飲みながら訊ねると、ヴァニーユは目を細めた。
「ええ、そうよ。ビスキュイも食べてやりたいところだけれど、まずはあなた。あなたが惨たらしく死ぬところを見れば、サヴァラン様もきっと胸がすくことでしょう。それに、わたくしは待ちきれないの。だって、あなたはきっとアンゼリカと同じ味がする。早くその味を口にしたい」
そう言ってヴァニーユは低く笑った。
「良血蝶々なんて、見た目だけだと思っていたの。でも違った。どうしてわたくし達の先祖が面倒な戦いを仕掛けてまで蝶の王国民を……それも、王女や王子といった高貴な血を引く獲物を狙ったのかがすぐに分かった。あなた達はまさに大地の恵みだった。聡明さも誇り高さも、その血肉の味と釣り合っていたのね。アンゼリカを食べるまでは知らなかった。知らなくても生きて来られたものだから。でも、知ってしまった以上、もう後戻りは出来ない。人間たちの作りだす物言わぬ高級肉じゃ満足できないの。生きた状態のあなた達を、死にたくないともがき苦しむあなた達を貪らないと、満足できない身体になってしまった」
ここまでついて行けばグリヨットはもう大丈夫だ。取引なんて端から乗るつもりはない。隙を見て逃げる気でいるのは今も変わっていない。それでも引っ張る力は強すぎて、逃げ出すことなんてとても出来なかった。これが、種族の違いなのだろうか。出会った頃よりも成長したビスキュイから感じる力強さよりも、ずっと凶悪に思えた。そして何よりも怖かったのは、ヴァニーユがこの力強さをこれまでずっとひた隠しにしてきたことだ。
「逃げようとしているのね、マドレーヌ。今更、命が惜しくなったの?」
振り返り、ヴァニーユは笑った。
「でも、そうはいかないわ。野良妖精たちの命と引き換えよ。サヴァラン様は野良どもなんてお好きじゃないようだけれど、彼らが勝手に出ていくというのなら根絶やしにまでする必要はないの。でも、あなたは別よ、マドレーヌ。新しい場所で何もかも忘れて幸せになろうとしていたアンゼリカのことを、どうしても見逃してあげられなかったようにね、あなたの事も見逃してはあげられないの」
「なんで……なんでなの」
さすがに怖くなってしまった。覚悟なんて散々してきたと思っていたけれど、このまま引きずられて行くのは嫌だ。死にたくない。こんな死に方したくなかった。
「なんで、サヴァラン様はわたしを殺したがっているの? なんで、フィナンシエ様のことを憎んでいるの?」
「さあ、なんでかしらね。あの方はね、出会った頃からずっと心を閉ざしてしまわれているの。買い取られたわたくし達だけが癒しだと何度も言っていた。特にあの方のお気に入りだったのが美しい女蜘蛛のバルケット。そのバルケットが死んでしまって、ますます心を閉ざされてしまわれた。だから、わたくしは癒してさしあげたい。あの方が喜ぶのなら、なおさらあなたを見逃してやれない」
どんなに踏ん張ろうとしても、ヴァニーユの力には抗えなかった。ひたすら歩かされ、壁に手を突くことも許されなかった。残してきたグリヨットのことが気がかりだ。無事に保護されただろうか。ああ、出来ればそのままわたしの事も探してはくれないだろうか。手が痛くなるほど強く掴まれながら、わたしはひたすら願った。上空を今もフランボワーズは飛んでいるはず。その空からわたし達の姿は見えないだろうかと。しかし、望みは薄かった。薄いまま、わたし達は馴染みのある路地裏の世界から逸れていた。向かっているのが何処なのかさえも、わたしには分からないままだった。
やがて、わたし達は静かな雰囲気の場所に出た。人通りは恐らくそれほど多くはないだろう。特に今の時間帯は。道は王都の中心から外れる形で続いており、その先には林が広がっている。林道と言えば、フィナンシエの屋敷から抜け出した時にも似た道を通るけれど、心なしかあの道よりもずっと寂しい空気が漂っていた。こうなると、自分が今、何処を歩いているかも分からない。何処に向かっているかさえも分からなかった。
「さあ、おいで」
これ以上行けば、帰れなくなる。見つけて貰えなくなる。恐怖のあまり身体が凍ったように硬直してしまった。足はもう動かない。そのことがせめてもの抵抗だった。だが、虚しい抵抗だった。
「しょうがないわね」
ヴァニーユはそう言うと、わたしの身体を容易く担ぎ上げてしまったのだ。
「いや……行かない!」
もはや叫ぶことしか出来なかった。
「ビスキュイ! フランボワーズ様!」
夜の町にわたしの声がこだまする。だが、その声が響き渡らないうちに、ヴァニーユは走り出した。暗い林の景色が流れ、やがて見えてきたのはお城のようなお屋敷だった。わたしが暮らしているフィナンシエのお屋敷のように美しい建物だ。しかし、そこに向かっているのだと理解できると、一瞬にして恐ろしい外観のように見えてしまった。あれはきっとサヴァランのお屋敷なのだろう。あの場所でわたしは、食べられてしまう。本来の計画がそうであったように。
助けは結局来なかった。来ないまま、ヴァニーユの足は、サヴァランのお屋敷にたどり着いてしまった。
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