3.麗しの白金狐
正式にフィナンシエの妖精となって、一週間経った。あっという間だったようにも思えるけれど、振り返ってみればあまりに濃厚で、まだ一週間しか経っていないのかと驚いてしまう。幸いなことに、フィナンシエの屋敷には、生家の兄弟姉妹が実しやかに噂していたような意地悪な人間はいなかった。いずれも妖精のわたしを見下したりはせず、対等に、時には目上のお嬢さまのように扱ってくれた。一番好きなのは世話係に任命されたキュイエールという使用人だ。年若い彼女はまるでわたしを妹のように扱ってくれる。だから、とても気が楽だった。彼女と話していると、生家で優しくしてくれた生産者一家の娘たちを思い出して、少し懐かしい気持ちになる。もちろん、フィナンシエとの関係も悪くはなかった。初めての妖精と言っていた通り、ぎこちない態度で接してくるものの、そうはあっても最低限の主人の威厳は感じるものだし、厳格な主人よりもわたしに合っている気がした。
世の中には妖精を虐待する酷い人間もいるという。男であれ、女であれ、そういう人物の妖精にならなかっただけ、わたしは間違いなく幸運なのだろう。その証拠に、この七日間で不快な思いをしたことは一度たりともなかった。当然ながら、わたしだって馴染もうと努力したのだからその賜物と思いたいが、そもそもの環境が理想的であることは疑うまでもなかった。そうでなかったら、どうしてフィナンシエと共に庭を散歩できよう。オークションの前日までは、売り先が幽閉のような環境だとしても文句を言わないのが良血妖精の嗜みとまで言われていたのに、ここは覚悟していたものとはだいぶ違う世界だった。
けれど、わたしが馴染めたのは良血妖精としての暮らしのほんの一部だ。それも、ぬくぬくと温かいぬるま湯のような部分のみ。フィナンシエの妖精になった以上、これから先は事あるごとに、わたしの態度がそっくりそのまま主人の評価に繋がりかねない。来客一つをとっても、緊張感の連続となるわけだ。だから、その第一歩となる初めての来客の日は、目覚めた時から気持ちが落ち着かなかった。ここへ来るのが、いずれは家族となるかもしれないとの噂のアマンディーヌと、わたしの初めての友人になり得るビスキュイだと聞けば、尚更のことだった。
こういう時の為の作法は生家で嫌というほど叩き込まれた。教鞭を手に厳しく指導する生産者一家の夫人は、嫁ぐ前からすでに、出品前の良血妖精たちの躾役として有名だった。そんな彼女の直接指導を蛹化前から受けてきたのだから、自信を持つべきだろう。しかし、稽古と実践は違うのだということを、応接間に呼ばれた後でわたしはようやく理解した。
「マドレーヌ、ご挨拶なさい」
「は、はじめまして……マドレーヌです」
あれほど頭の中で練習した口述が上手く出てこない。その無力感で頭の中が真っ白になってしまった。ああ、なんてわたしは駄目な妖精なのだろう。情けなくて仕方がなかった。だが、有難いことに、アマンディーヌはそんなわたしの失態など全く気にしていない様子だった。
「はじめまして。アマンディーヌよ。こちらは私の妖精のビスキュイ。あなたと同い年の男の子よ。仲良くしてあげてね」
そして、わたしの顔を覗き込むと微笑み、そしてフィナンシエに言った。
「会場で見るよりもずっと可愛い。思った通り、ビスキュイにぴったりね。そう思わない、フィナンシエ?」
色気たっぷりのその声に、わたしは聞き惚れてしまった。正直に告白すると、アマンディーヌを実際に目にするまでは、人間の中にもこんなに美しい女性がいるなんて思いもしなかった。特に心を奪われてしまうのが、白狐のような白金のまとめ髪だ。そのすっきりとした印象を際立たせる深海色のドレスもよく似合っている。絵画の中で見るような人物だ。そのおまけにぴったりと寄り添うビスキュイの存在もまた、彼女の雰囲気によく馴染んでいた。銀色の髪に、わたしと同じ菫色の目。ひと目見ただけで人間たちとは全く違う親しみやすさがありありと出ていた。兄弟姉妹の妖精とじっくり会うのは初めてかもしれない。オークション会場にもいっぱい妖精はいたけれど、交流の機会なんて一切与えられなかった。だから、目の前のビスキュイの存在と交流は、良血としての暮らしが始まって以来、もっとも戸惑い、もっとも好奇心をかきたてられるものだった。
会話を交わす主人たちの横で見つめ合う事しばし。ふいにビスキュイは顔をあげ、アマンディーヌに声をかけた。
「アマンディーヌ様」
小鳥のさえずりのような声で、彼は訊ねた。
「少しの間、マドレーヌとじっくりお話がしてみたいです。お庭を散歩して来てもよろしいでしょうか?」
「お庭ねえ」
アマンディーヌが窺うようにフィナンシエへと目を向ける。
すると、フィナンシエは言った。
「じっくり話したい、か。それなら、庭ではなくてマドレーヌの部屋はどうかな? そうだ、アマンディーヌ。ついでにこの子の部屋を評価してくれないだろうか。アドバイスがあったら、遠慮なく教えて欲しい」
「そういう事なら構わないわ。ビスキュイ、それでいいかしら?」
アマンディーヌの問いに、ビスキュイは屈託のない笑みで頷いた。わたしもまた反論はなかった。
「では、案内して」
アマンディーヌの甘い囁きに、フィナンシエもまた心からの笑顔で応じた。わたしはそっと彼の笑みを見つめた。この七日で目にしてきたうちでも一番の笑顔だった。あんなに楽しそうな主人の姿は初めて見た。そのことに何故かわたしも薄っすらと嬉しくなっていると、ビスキュイが隣にやってきてそっと囁いてきた。
「これからよろしくね、マドレーヌ」
にっこりと笑う彼は人間たちの描いた天使の絵画のようだった。そんな彼にわたしも微笑み頷いた。
「こちらこそよろしく、ビスキュイ」
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