7.初めて一緒に過ごす夜
今度は花蜜茶もない。すぐに眠りなさいと言い残し、キュイエールは立ち去ってしまった。扉には鍵がかけられ、主人たちの話を盗み聞きすることも出来ない。となれば、わたし達に出来ることは眠る事だけだった。だが、落ち着かなかった。わたしの部屋は決して狭いわけではない。しかし、ベッドは一つしかない。座り心地の良い長椅子はあるが、行儀の良い妖精が眠ることには適さない。そもそも、人間たちはどうやらわたし達を同じベッドで眠らせるつもりであったらしい。
いつもならば、一角獣のぬいぐるみと二人きりの広いベッドに今宵はビスキュイも眠る。妖精二人でちょうどいい大きさではあるけれど、わたしは妙に彼の存在を意識してしまっていた。朝まで一緒なのかは分からない。もしかしたら、話し合いの状況次第では、日が明けないうちにアマンディーヌともども帰る可能性だってある。しかし、それがいつまでなのかは、わたし達には分からなかった。分からない以上、もじもじしていても仕方がない。わたしはベッドに潜ると、隣で仰向けになって天蓋をただただ見つめているビスキュイに話しかけた。
「まさかこのベッドで一緒に眠る日が来るなんて思わなかった」
ビスキュイはどこか惚けた様子で答えた。
「僕も思わなかった」
眠たいわけではないらしい。その証拠に愛らしい目はぱっちりと開いたままだった。わたしは彼にそっと訊ねた。
「寝心地はどう?」
すると、ビスキュイはわたしの言葉に含まれる不安を感じ取ったのか、すぐにこちらに目を向け、そして愛らしい笑みを浮かべた。
「とてもいいよ。僕のベッドと同じくらいね」
「ビスキュイのベッドか……」
実際に目にしたことはある。わたし達がいま使っているこのベッドと同じくらい豪華なものだった。格式は同じくらい。けれど、デザインの端々にフィナンシエとアマンディーヌの好みの違いや、わたしやビスキュイに対して持たれているイメージの違いなどを感じるものだった。とはいえ、二人の趣味はだいぶ似通っていることも確かだった。きっと、彼のベッドの寝心地もほっとするのだろう。もしかしたら、いつかは、わたしもビスキュイのベッドで眠る日が来るのだろうか。未来の事を想うと、何だか不思議な気持ちになる。
「ねえ、マドレーヌ。今度は僕の部屋に泊まることになるといいな。もちろん、いつかは一緒に暮らすことになるのだろうけれど、その前に知ってもらいたいんだ。今の僕の暮らしを、もうちょっとだけマドレーヌに知ってもらいたい」
半分眠りながら、ビスキュイはそう言った。彼の眠気がうつり、わたしもまた程よい眠気に見舞われた。そんな状態で、夢見心地のまま、わたしは答えた。
「わたしも知りたい」
そして、それっきり黙ってしまうと、しばらく天蓋を見つめていた。意識を眠気に委ねて、じわじわと眠りの世界へ向かおうとすると、今日あった事が音の記憶となって蘇ってきた。
歌劇場の喧騒。オーケストラの華やかな演奏。看板女優ブリオッシュの歌声。その後に蘇るのは、勝手に客席を抜け出した後に聞いた音だった。優しい係員の声。階段を下りる音。遠ざかっていく音楽。そして、誰もいない勝手口でひっそりと会話をする二人の人物の声。そこからは、音の記憶もだいぶ不穏になっていく。祈り場に集まっていた妖精たちの喧騒、グリヨットの助けを求める声、ヴァニーユと戦った時の音、連れ去られそうになった時の音、フランボワーズに助けられた時に聞いた音……。
色んなことが今日のうちにあった。だが、最後に思い出したのは、いがみ合うサヴァランとフィナンシエの言い争いの声だった。そこでわたしの意識は急に戻ってきてしまった。
──こわい。
恐怖がどっと押し寄せて来る。当たり前のようにビスキュイとの未来を考えていたけれど、果たしてその未来は守られるのだろうか。グリヨットたちに憧れている余裕なんて今のわたしにあるのだろうか。このままでは、本当に破滅の道へと引きずり込まれて行ってしまうかもしれない。一度、そんな不安が押し寄せてくると、眠気なんて吹き飛んでしまった。
ベッドの中に潜り込んで、わたしは必死に眠ろうとした。寒気が酷く、必死に温まろうとしていると、隣で眠ろうとしていたビスキュイが気づいてしまい、声をかけてきた。
「どうしたの、マドレーヌ。大丈夫?」
心配そうなその声に、わたしは慌てて返事をした。
「大丈夫……ただ、色々あったから」
笑顔で平気なところを見せてやりたい気持ちはあったけれど、今のわたしにはせめて泣かないようにするので精一杯だった。そんなわたしをビスキュイはしばし見つめてきたかと思うと、「マドレーヌ」と指で突いてきた。そして、突かれるままに反射的に起き上がるわたしを、彼はぎゅっと抱きしめてくれたのだ。
温かい。ビスキュイの温もりと香りに包まれると、大きくなりつつあった不安は一気にしぼんでいった。今宵ばかりは一人じゃなくてよかった。心からそう思えた。
「安心して」
彼は言った。
「この先何があろうと、僕はずっと一緒にいるから」
純粋無垢なその言葉が、わたしの心の靄を一瞬にしてかき消してくれた。彼だって自由な身分ではない。飽く迄もアマンディーヌの妖精であって、その未来は彼自身ではなくアマンディーヌが決めることになる。彼だって分かっているだろう。自分の言葉が、単独ではどれだけ無力なのかを。それでも、わたしは嬉しかった。彼が思ってくれている。慰めようとしてくれている。その事自体が嬉しくて、そして、心強かった。
思い出すのはグリヨットを助けに行こうとしたときの事。野良妖精たちの誰もがフランボワーズに続けなかったあの時、真っ先に飛び出したのはビスキュイだった。普段は愛くるしいのに、あれほど勇敢で逞しい妖精は知らない。そんな妖精が味方でいてくれることは、非常に頼もしかった。ともすれば一人きりのベッドで毎晩悪夢から護ってくれるこの一角獣のぬいぐるみよりも。
そんなビスキュイの言葉と温もりのお陰で、わたしは安心して眠る事が出来そうだ。今の彼には確かに何の権限もないかもしれない。わたしと同じで飼い慣らされる妖精に過ぎないかもしれない。それでも、彼の存在は、わたしにとって希望そのものに違いなかった。
「おやすみ、マドレーヌ」
「おやすみ、ビスキュイ」
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