9.声に縋りながら
フランボワーズは夜の空を飛び、ビスキュイはわたしよりも恵まれた体力で地上を駆けていく。わたしはというと、自分のペースを守るしかなかった。壁に手を突けて、せめて見落としがないように左右を見渡して。
巷を騒がせていた肉食妖精の正体がはっきりしたせいか、恐怖はさほどなかった。しかし、焦燥感だけは常にわたしの影に付きまとっていた。必死に見つけた先にあるのが、変わり果てたグリヨットの姿だったらどうしよう。そうでなくとも、今まさに食べられようとしている彼女を、恐ろしい肉食妖精からどうやって奪い返せばいいのだろう。考えたところで良い案は出ない。けれど、わたしは歩むことを止めなかった。
休憩を繰り返し、その度にわたしは壁に手を突いて音を探った。音は色々な情報を伝えてくれる。サヴァランの居場所を教えてくれたのもこの力だった。本当に欲しい音だけを探る感性もまた、この力を使えば使うほど研ぎ澄まされていくらしい。しかし、一つの建物であった劇場と、路地裏という限られた区域とはいえ広い外の世界とでは違いすぎる。なかなかそれらしき情報は掴めず、途方に暮れた。
ふと空を見上げると、星空の下でフランボワーズらしき影が飛んでいくのが見えた。空高くからの視点であれば、見渡すことは容易かもしれない。だが、そうであったとしても、フランボワーズだけに任せてはおけなかった。彼女だって万能の神ではない。これまで沢山の妖精たちを救ってきたはずだけれど、彼女にだって協力者は必要のはずだ。良き協力者になるためにもわたしは、わたし自身に今出来ることをしたかった。
その思いが叶ったのだろうか。壁に手を突き、集中してみると、微かにだがこんな声が聞こえてきた。
『……嫌だ』
短い声だった。とても小さな声だった。しかし、聞き慣れていたその声を、忘れてしまうはずもなかった。
『グリヨット!』
壁に手を突いたまま、わたしは必死に呼びかけた。返答はない。わたしは深呼吸すると、今度は壁に額をくっつけた。手だけでも探る事は出来る。だが、もっとより正確に居場所を探るには、やはり額で聞きたかった。すると、今度ははっきりと声が聞こえてきた。
『いやだ、死にたくない……助けて!』
グリヨットだ。間違いない。まだ生きている。けれど、時間がない。
「フランボワーズ様! ビスキュイ!」
わたしは路地裏の中で叫んだ。グリヨットの声には気づいているだろうか。その姿は捉えられただろうか。しかし、わたしの声もむなしく響き渡っただけだった。返答はない。反応もない。となれば、彼らを待ち続けるわけにはいかない。壁に手を突いたまま、わたしは再び歩き出した。
『グリヨット! グリヨット!』
必死に呼びかけながら、同時に不特定多数に向けて声も放つ。
『グリヨットがいた! グリヨットの声が聞こえた! 誰か!』
この声が誰かに届くことを祈りながら、わたしは音を探り続けた。グリヨットの言葉は聞こえてこない。だが、泣いているような声は伝わってくる。言葉を放つ余裕すらなくなっている。しかし、その泣き声のお陰で位置はだいたいわかった。
『グリヨット、聞こえる? 声を出し続けて!』
通じているかどうかは分からない。けれど、グリヨットの声は続いていた。その声を頼りに、わたしは駆け足で進んでいった。信じたくないことだが、歩みを進めるごとに声は弱まっていく。力を失っていく。それがどういうことなのか、深く考えたくもない。ただ、とにかく彼女のもとへ。そんな思いで、わたしは路地裏を駆け抜けた。そしてたどり着いたのが、袋小路になっている広々とした空間だった。
そこは、ルリジューズたちのいる祈り場にも似ている場所だった。壊された屋敷の瓦礫がそのままになっている。廃屋だった場所が崩れてしまったのか、意図的に崩されたのか、それは分からない。ただ周囲の建物が壁となっていて、空を飛べない限り逃げ場は一つしかない。そんな閉塞感のある場所だった。
原型を留めていない廃屋の傍に、グリヨットはいた。壁に押さえつけられた状態で、苦しそうにもがいていた。抑え込んでいる犯人は、分かっていた通りの白い姿をしていた。息を整えつつ、わたしは思わず叫んでしまった。
「グリヨット!」
振り返ったのは勿論、グリヨットではない。ヴァニーユ。サヴァランと話をしていた彼女だけが振り返った。いつもは美しいその顔がこちらを向いた瞬間、わたしは背筋が凍りつくような恐怖に駆られた。すでに捕食は始まっていたのだ。その白い身体に浴びているのは、グリヨットの流している血だった。
わたしは言葉にならない声をあげた。恐怖による悲鳴でもあったし、興奮による怒声でもあった。廃屋のもとに散らばっている廃材が視界に入り、飛びつくようにそれを拾った。武器なんて手にしたことはない。持ったところでフランボワーズのように戦えるはずもない。けれど、わたしはその重たい廃材をどうにか構えた。
グリヨットは、まだ生きている。食べられる痛みと苦しみ、そして恐怖に耐えながら、もがき続けている。助けるならば今だ。今しかない。
「グリヨットを、返して!」
あらゆる恐怖に追い立てられるかのように、わたしはヴァニーユに飛び掛かった。
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