3.白花の一族
人間たちが去っていくと、途端に心細くなってしまった。けれど、そんなわたしの不安を包み込むようにカモミーユは抱きしめてきた。彼女の甘い香りに包まれ、気が狂いそうになる。だが、乱暴に振り払う事も出来ず、わたしはただ必死に理性を保とうとしていた。
「マドレーヌ様、お会いできて光栄です」
その甘い言葉に釣られて、わたしは顔をあげた。白い妖精と言ったが、本当に白かった。肌だけでなく、髪も純白。けれど、目の色は宝石のような赤色で、その鮮やかさがわたしの心をざわつかせた。何故だろう。カモミーユをずっと見ていると、自分の中に恐ろしい怪物がいるような気がしてしまう。その正体はよく分からないけれど、彼女に酷い事をしてしまいそうで恐ろしかった。ごくりと息を飲みながら、わたしは平常心を保ちながら答えた。
「様なんていらないよ。わたしはあなたと同じただの愛玩妖精だもの」
どうか、敬称なんてつけて持ち上げるようなことはしないでほしい。でないといよいよ、たがが外れてしまいそうだ。けれど、カモミーユはにこりと笑って、残酷にも首を横に振ったのだった。
「いいえ、どうかそんな事をおっしゃらないで」
逆に懇願するように言われ、困惑してしまった。そんなわたしを見て、カモミーユは少しだけ寂しそうな顔をして囁いてきた。
「いつの時代であろうと、どんな立場に置かれていようと、あなた方は蝶の女王の末裔。今もわたくし達にとってその尊さは変わりません」
思わぬ言葉にわたしは驚いた。生まれてこの方、そのように言われたのは初めてだった。けれど、だからこそ戸惑いもあった。これは危険だ。危険な言動だ。カモミーユの微笑みに、わたしの中の常識が脆くも崩れそうになっている。しかし、むしろそれを狙っているかのようにカモミーユはわたしにそっと語りかけてきた。
「わたくしは王家のために繁栄した白花の一族の末裔です。この蜜を吸うことが許されたのは王家の蝶だけでした。何千年もの間、わたくし共はあなた方に蜜を捧げてきたのです。何千年もかけてこの血に刻まれた精神が、たった二百年で変わるはずもありません。たとえ、新たな支配者が現れたのだとしても」
カモミーユの言葉に、わたしは息を潜めてしまった。フィナンシエたちに聞かれてはいけない。そんな秘密の会話が恐ろしい反面、望ましくもある。けれど、戸惑うわたしを誘うように、カモミーユは微笑みかけてきた。
「さあ、この蜜をご堪能下さい」
妖しいその囁きに導かれるままに、わたしはカモミーユの手を握った。
「蜜……」
いつも口にする蜜飴とは全く違う。ただの食事ではないのだ。それらを断片的に理解したその時、カモミーユの指に唇を撫でられた。その途端、恐ろしいほどの甘みがわたしの舌を襲った。瞬く間に脳髄を貫かれるかのようなその刺激は、ただでさえ理性を保つのに必死だったわたしの心身を脅かすものだった。
「我慢なさらないで。人間たちだってこの為にわたくしをここへ連れてきたのです。恋の季節の鬱憤を晴らすこと。それがわたくしの役目なのです」
「──本当?」
堪らなくなってわたしはカモミーユの手を握り締めながら訊ねた。
「本当に、良いの?」
どうか、良いと言ってほしい。背中を押して欲しい。すでに求めている答えは一つだ。しかし、その答えを得るまでは、せめて行儀の良い妖精でありたかった。そんなわたしの誇りを心から尊重するかのように、カモミーユは柔らかな声と表情で頷いたのだった。
「勿論ですよ」
カモミーユはそう言うと、思い切りわたしを抱きしめてきた。その瞬間、わたしの心に辛うじて残っていた最後の理性の塊が砕け散った。とはいえ、わたしも羽化したばかり。経験の浅い小娘らしく、何をどうしたらいいのか分からなかった。ただ体の奥底で疼いている欲望ばかりが暴れてしまい、苦痛ばかりが溜まっていく。そんなわたしをカモミーユは優しく誘い、全てを解放してくれた。
蜜飴とは全く違う。これがかつて、わたし達の先祖が楽しんでいた味なのだろうか。視界が段々と白くなっていく中で、カモミーユの蜜の甘さだけが沁み渡る。生まれて初めての感覚だった。それなのに、何故だか懐かしい気持ちになる。これまでに体験したことのない出来事のはずなのに、初めて味わうこの刺激がしっくりと来た。
血に刻まれているというのはこういう事を言うのだろう。夢うつつの意識の中で、わたしは始終、カモミーユに導かれながら、恋の季節の鬱憤を晴らし続けた。恐らく、わたしの心身が本当に求めていることはこれじゃない。けれど、そうであっても、カモミーユの蜜の味と、そしてカモミーユの存在自体が、わたしの欲望をうまく刺激していたのだろう。
いつしかわたしの中の苛々は消えていき、幸福感に包まれていった。そして、全てが満たされると、仄かな疲労を感じて身体を横にした。ひとりぼっちで眠るには広すぎるベッドの上で、わたしはカモミーユと身体を寄せる。カモミーユの温かな身体を頬で感じ、生きていることを実感すると、幸せな気持ちがさらに増した。唾を飲むと先ほど味わったばかりの濃厚な蜜の後味がして、うっとりとした気分になった。
二人きりにされて、恐らく一時間は経っただろう。このたった一時間が短いようでいて、途方もなく長く濃厚なものにも感じられた。何をどうしたのか、一々覚えてはいない。自覚していることは、ただ、美味しい思いをしたということだけ。そしてさらに、カモミーユの事が当初とは比べ物にならないほど愛おしく思えたことだけだった。
「カモミーユ」
彼女の温もりに甘えながら、わたしは小さく告げた。
「あなたの蜜、とても良かった」
すると、カモミーユは微笑みを浮かべながら、呟き返してきた。
「光栄です」
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