5章 とても残酷な事件

1.約束のチョーカー

「どうしたんだい、マドレーヌ?」

 愛すべき主人フィナンシエに声をかけられ、わたしは慌てて顔をあげた。昨日は殆ど眠れなかった。グリヨットが帰っていったあと、一人にされて、ベッドの上でただ横たわっていることしか出来なかった。それだけ、ショックは大きかった。

 グリヨットがぼろぼろ泣いていたためか、不思議と涙は出てこなかった。泣くほどの実感が持てなかった。どうしてアンゼリカが。アンゼリカが死んでしまうなんてことがあり得るのだろうと。

「マドレーヌ?」

 再び声をかけられて、わたしは再び思考の巡りを止めた。フィナンシエは心配していた。あまりに茫然としていたからだろう。

「顔色が悪いようだ。具合でも悪いのかな?」

「い、いえ。大丈夫です。お気になさらず」

 そう言うしかなかった。全ては妖精たちの中で起こったことだ。このショックを共有できるのは、伝えてくれたグリヨットか、わたしと同じく彼女の報告を受けたビスキュイしかいない。どんなにフィナンシエが頼れる主人であっても、彼が人間である以上、この話をすることは躊躇われた。

 もちろん、上手く誤魔化せたとはとても思えない。フィナンシエは釈然としない様子でわたしを見ていた。だが、話すつもりがないことを悟ると、彼は気を取り直してわたしに向き合った。

「そうか。それならいい」

 そう言って、彼はわたしにソファへと座るよう促された。向かい合って座ると、間に置かれた長机に箱が置かれた。開けるように言われて従うと、その中には見慣れないチョーカーが入っていた。

「昨日話そうと思っていたことだ」

 彼は言った。わたしは呆気にとられてしまった。昨日の話といえば、てっきり長い説教をされるとばかり思っていたからだ。しかし、どうやらそうではないらしい。

 手に取るように言われるままに、わたしはそのチョーカーをじっくり見つめた。ヴェルジョワーズの愛好会でも、美しいチョーカーをつけていったことは何度かある。しかし、この度のチョーカーはそういった単なる装飾用の代物とは少し違うようだった。もっと堅苦しく、それでいてどんな服でも合うような上品なもの。そして、何よりも注目すべき部分は、中央にぶら下がる銀の札だった。ネームプレートらしい。

「これは……」

 呟くわたしにフィナンシエは告げた。

「君の登録名と登録番号だ。照合すればすぐに君の身元が分かる」

 そして、フィナンシエはため息を吐いた。

「協会に相談したら作ってもらえてね。一応、我が国の法律では良血妖精をひとりで歩かせること自体は違反とはならない。しかし、そうは言っても世間は物騒だ。野良妖精たちの数を統制している以上、それに巻き込まれないとも言えないし、誘拐の危険だってある。正直言って、私は君をひとりで歩かせたくないし、そういう主人の方が多いだろう。しかしね、妖精には妖精の都合ってものがある。昔からどんなに厳格な主人が躾をしたところで散歩したがる妖精が躾によって矯正されるとは限らないものだった。ならばせめて、安全を確保したい。そういう願いが込められているのがそのチョーカーだ」

 彼の言葉を聞いて、わたしは静かにチョーカーを見つめた。いわば、愛犬につける首輪のようなもの。フィナンシエはだいぶ気遣ってくれてはいたが、今のわたしにはかつてのように素直な愛情の証として受け取ることは難しい。

 それでも、理想は理想。現実は現実だ。

「身につけたくなければ受け取らなくてもいいんだ。だが、それならばせめて、私と約束して欲しい。二度と脱走なんてしないと」

 彼の言わんとしていることは、分かっていた。だから、わたしはチョーカーを握り締め、彼を真っすぐ見つめるしかなかった。愛する主人が望んでいる選択は一つ。彼の目を見つめているとよく分かった。かつてならば、それを汲んだ上でわたしは彼の望む答えを示しただろう。すなわち、チョーカーを受け取らず、彼の望む答えを口にしていただろう。しかし、今のわたしにはとてもそんな事が出来なかった。まだ、出来ない。少なくとも、落ち着いた思考の果てに、自分で自分の未来を決められるまでは。

 だから、わたしは言ったのだ。

「受け取ります」

 その短い返答に、フィナンシエの眉間にしわが寄った。だが、気にしたりはしない。気にする前にわたしは自らチョーカーのフックを外し、自分の首につけようと試行錯誤した。苦戦しているとフィナンシエは諦めたように立ち上がり、わたしの後ろに回ると手伝ってくれた。無事に付け終えると、彼はわたしの正面に回り、じっと眺めてきた。

「似合っているよ」

 優しい声だったが、その表情はとても悲しそうだった。罪悪感は掻き立てられるが、後悔はなかった。今はまだ檻の中に入るわけにはいかない。このままフィナンシエの妖精であり続けるにしろ、グリヨットたちの旅立ちを間近で見送りたかったのだ。それに、今のままではじっとしてなんていられない。アンゼリカの身に起こった悲劇と、その真相がはっきりと分かるまでは。そして、他ならぬわたし自身がその事実と折り合いをつけられるまでは。ともかく今のわたしには、ルリジューズの祈り場が必要だった。

「せめて無茶はしないと言っておくれ」

 彼はそう言って、力なく微笑んだ。

「君に何かあったら、私は今度こそキュイエールに刺されてしまうかもしれない」

 冗談交じりのその言葉に、私もまた笑みを浮かべることが出来た。丁寧にお辞儀をすると、彼は満足したようでそのまま下がる許可をくれた。今日の予定は何も告げられていない。後は好きに過ごしてもいいということだろう。チョーカーをつけたわたしを屋敷の者たちは心配そうに見つめて来る。しかし、少なくとも嫌味を言ってくるような人間はいなかった。

 つくづく思った。わたしは幸運なのだと。もしもフィナンシエではなくサヴァランに貰われていたら、こうはならなかった。うっかりそんな事を思ってしまい、すぐにアンゼリカの事を思い出して立ち眩みがした。フィナンシエの呼び出しという緊張感から解放されてしまえば、次にやって来るのは向き合わなければならない現実。

 グリヨットが昨夜教えてくれたことのショックを抱えたまま、わたしは廊下の窓から外を眺めていた。チョーカーに触れながら、グリヨットの泣き顔とその声を思い出す。アンゼリカが死んだ。誰かに殺された。今はまだグリヨットから聞いただけである。それは本当なのか。本当だとしたら、何があったのか。どうしても知りたくて、わたしは決意した。

 今から行こう。昨夜、アンゼリカがいたはずの祈り場へ。

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