12.希望と共に

 フロマージュに送り届けられると、フィナンシエたちは悲痛な顔で出迎えた。この前のように怒られたりしなかったのは、彼らも察していたからだろう。フランボワーズを助けられなかった。その後ろめたさが少しはあったのかもしれない。帰ってくるなり、アマンディーヌはわたし達を抱きしめてくれたし、フィナンシエも言葉を選びながら出迎えてくれた。

 二人の温かさに少しほっとした。けれど、それだけだった。まるで呪縛が解けたかのよう。今のわたしは、ご主人様に尻尾を振る小犬ではなくなってしまっていた。存在しない尻尾を振ろうとすると、フランボワーズの歌声を思い出してしまい、すぐにその気持ちが引っ込んでしまうのだ。フィナンシエたちは気づいていない。今日はもう休みなさいと言われ、早々に部屋へと戻された。ビスキュイとじっくり話したのはその後だった。

『──分かった』

 繋いだ手から彼の“声”は伝わってきた。

『僕もマドレーヌと一緒に行くよ』

『本当に良いの? アマンディーヌ様が悲しまれるよ』

『フィナンシエ様だって悲しまれるさ。でも、それでいいんだよ。きっと、僕も君も、人間たちを幸せに出来る良血妖精じゃなくなってしまったんだ。二人を幸せに出来るのは、別の妖精たちだ。僕たちが幸せになれるのも、ここじゃないんだ』

 彼の言葉に、わたしは安心した。そう思えばいい。わたしもまた自分にそう言い聞かせた。フィナンシエの事が嫌いになったわけではない。彼の顔を思い出せば、別れるのは辛くなる。それは確かだ。それでも、彼の想いを裏切ってまで、わたしはここを去りたかった。ここはそもそも人間の世界なのだ。妖精の暮らす場所じゃない。人間に可愛がられる才能と資格のある妖精以外は居てはいけない。

 フィナンシエとアマンディーヌは違うと言うだろう。どんなにわたし達のことを愛しているか。家族だと思っているかを力説するだろう。そうしてくれるという類の信頼があった。けれど、たとえそれが間違っていなかったとしても、わたしはもうここで暮らし続ける気になれなかった。

 フランボワーズの最期の歌。言葉にならないあの旋律。無視しようとしても抗えないものが胸に宿ってしまった。気づかなかったふりをして、ここで暮らし続けても、わたしはきっとあの歌を思い出して、涙してしまうだろう。悲鳴でもあったあの歌には、妖精たちの嘆きがこもっていた。祖国を失い、奴隷となり、人間に翻弄されながら暮らし続けるしかない先祖たちの、そして今のわたし達の苦しみがこもっていた。

 思い出すだけで切なくなる。あの哀歌はわたしにとって、従順の血という呪いを解く最後の鍵であり、そして新しい呪いでもあった。行かなければという強い想い。フランボワーズの分まで立ち上がり、王国を復活させなければという強い想いが沸き起こってくる。

 だからもう、ここにはいられなかった。

 今宵はわたしの部屋でビスキュイも泊まる予定だ。キュイエールに無理を言って、扉の鍵をどうか閉めないでほしいと懇願した。キュイエールは、わたし達の不安を重く見て、願いを聞いてくれた。彼女の善意を利用する形となるのは心苦しくもあったが、躊躇うまでには至らなかった。夜も更けてくると、わたしはフィナンシエから貰ったチョーカーを自ら外し、一角獣のぬいぐるみの隣に置いた。ビスキュイも自身のチョーカーを外して隣に置く。刻まれた名前と番号を見つめていると、色々な事を思い出してしんみりとしてしまった。

 けれど、後悔なんてない。しばらくすると、グリヨットが庭園の茂みからひょっこりと顔を出した。まっすぐわたしたちのいる部屋へとやってくると、手を突いた。わたしとビスキュイが急いで手を突くと、軽く笑ってから、彼女は“声”を伝えてきた。

『起きていてくれたんだね。ありがとう』

『いよいよ旅立つんだね?』

 問いかけると、グリヨットは深く頷いた。

『これで都の野良はいったんいなくなる。蝶と花の全てがね』

 その言葉を聞いてわたしはビスキュイと顔を見合わせ、頷き合ってから伝えた。

『わたし達も行く』

 すると、グリヨットは驚きもせずに笑みを深めた。

『なんとなく、そう言うだろうって思ってた。でも、本当にいいの?』

 問いかけられて、わたしとビスキュイは深く頷いた。しかし、グリヨットは言った。

『不便な生活だよ。暑いだろうし、寒いだろうし、ヴァニーユよりも恐ろしい肉食妖精だっているだろうし。何でもあるわけじゃないよ。美味しい蜜飴なんてないからお腹いっぱい食べられないだろうし、君たちが着ているような上等な衣服もない。それでもいい?』

 これまでの当たり前はすべて消える。すべて失ってしまう。ルリジューズ、そしてアンゼリカの顔がちらついた。良血妖精だった彼女たちは、良血妖精だった頃を懐かしく思うと言っていた。それほどまでに、野良の暮らしは辛いのだろう。しかし、だとしても、胸に宿る哀歌はやまなかったし、使命感も消えてはくれなかった。

『それでも、行きたいの。新しい王国の住民になりたい』

『僕たちも一緒に築きたいんだ』

 死した者達のため。そう言おうとして、わたしはふと思い直した。これは、誰の為でもない。わたし自身の為でもある。胸に灯るこの哀歌だって、フランボワーズの放った魔法ではない。彼女の姿を見て、わたしの心に灯った自分自身の想いなのかもしれない。だから、わたしはわたしの為に、行かなくてはならなかった。

『そっか。そこまで言うのなら、あたしはもう止めないよ。一緒に行こう。外で待っているから』

 グリヨットの言葉に、わたしとビスキュイは頷いて、恐る恐る壁を離れた。ここからが勝負だ。無言のままに、わたし達は廊下へと出て、静かに、そして速やかに、正面玄関へと向かった。当然ながら、誰かに呼び止められるだろう。気づかれずに屋敷を脱出するなんて、きっと不可能だ。分かっていたことだ。

 だが、それでもやっぱり、エントランスでフィナンシエたちに呼び止められた時は心臓が止まりそうになってしまった。

「こんな時間に、何処へ行くんだ」

 フィナンシエの問いに、わたしとビスキュイは息を飲んだ。その挙動で伝わってしまったのだろう。二人の主人は顔を見合わせ、駆けだした。それを見て、わたしもビスキュイも慌てて玄関の扉を開いた。扉は重たかったけれど、鍵は閉まっていない。外へと飛び出すと、フィナンシエの大声が聞こえてきた。

「誰か! 誰か来てくれ!」

 グリヨットがその声に気づき、低木の影から顔を覗かせる。そちらに向かって走っていくわたし達の背に、アマンディーヌが呼びかけてきた。

「待って! お願い、止まって!」

 悲痛なその声に、ビスキュイが思わず振り返ってしまった。わたしもまた振り返り、二人の主人の顔を見つめた。青ざめた顔に罪悪感がこみ上げてくる。

「戻ってきて」

 アマンディーヌはそう言ったが、ビスキュイは従わなかった。

「この子と一緒に行きたいんです」

 彼の言葉に、アマンディーヌは首を振る。

「駄目よ。お願い、いい子だから!」

 取り乱す彼女の横で、フィナンシエはわたしをじっと見つめていた。

「いったいどこに行きたいんだ。いつ帰ってくる?」

 その問いが、胸を締め付けてくる。けれど、ぐっと堪えて、わたしはうんと悪い妖精になろうと努めた。

「もう二度と戻ってきません。わたしはもう、良血妖精じゃないんです」

「待ってくれ!」

 フィナンシエは叫んだ。命令のようなその声に、本来ならば従わねばと思うはずだった。けれど、不思議なくらい、従う気にはなれなかった。申し訳ないと思うし、薄情だとも思う。それでも、やっぱりわたしはこれ以上、ここで暮らしたくなかった。妖精として、誇り高く、新しい王国で生きていきたかった。

「行かないでくれ!」

 フィナンシエの声にむしろ押されながら、わたしはビスキュイと一緒に後ずさりした。警備の者が駆けつける前に、犬が集められる前に、急がないと。自分に言い聞かせ、わたしは駆けだした。ビスキュイもわたしに釣られて走り出す。フィナンシエとアマンディーヌの呼び止める声から、そして、楽しかった全ての思い出やしがらみからも必死に逃げるように、物陰で待っているグリヨットのもとへと走って、そのまま一緒に闇夜へと駆けていった。

 グリヨットに誘われ、走り続けるこの先は、どんな道が続いているだろう。きっとこれまで知らなかったような苦労が待っているだろう。帰りたいと思ってしまうことも、ひょっとしたらあるかもしれない。けれど、そんな不安以上に期待があった。

 この先の道を明るく出来るのはわたし自身だ。高価な良血妖精でもなく、人間に愛される誇りなどもなくなった今、わたしの価値を決めるのはわたし自身となったのだ。未知の苦労と不便さの先には、夢と希望と自由がある。新しい可能性へ仲間と一緒に飛び込むことは、本来の誇りを取り戻す一歩にも思えた。だから、わたしは怖くなかった。グリヨットが突き進む夜道がどんなに暗くとも、進み続けたその先には光があると心から信じることが出来たのだった。

 やがて、わたし達は暗闇の中で大勢の妖精たちの元にたどり着いた。クレモンティーヌが率いる蝶々たちは、グリヨットと共にやってきたわたし達の姿を見ても騒いだりしなかった。クレモンティーヌは静かにわたし達の顔を見つめると、夜目を光らせて小声で呟いた。

「帰りましょう。私たちの世界へ」

 その号令と共に、帰路の旅は始まった。

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蝶々たちのエレジィ ねこじゃ じぇねこ @zenyatta031

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