2.若き赤狐

 成長途中とはいえ、わたしも羽化を経て大人になる準備が整っている。蛹化前の純粋無垢な時期ならばまだしも、生産者の人間たちがわたし達を売り物としか思っていないことくらい理解していた。それでも、蛹の期間も含めて十年ちょっとは共にいたのだから、少しくらいは名残を惜しんでくれるものだと思っていたのは、考えが甘かっただろうか。そんな事はなく、約束の日が来るとわたしの身柄はあっさりとフィナンシエに引き渡された。思い返せば、すでに売られていった兄姉だってそんなものだったが、別れを惜しむ暇もなく生家を追い出されてしまい、そのあまりの素っ気なさに呆れるばかりだった。けれど、迎えに来たフィナンシエの顔を見ると、不安も不満も全て綺麗さっぱり消えてしまった。

 素っ気ないのはわたしも同じなのかもしれない。孵化から羽化までの十年ちょっと、家族のようにとはいかずともそれなりに愛情をかけてくれた生産者一家との別れの寂しさよりも、フィナンシエというこの青年のもとで暮らす明日以降の未来のことばかりを楽しみにしているのだから。しかし、良血蝶々とはそういうもの。良い人に売られるのは幸運な蝶で、売れ残って行き場を失うのが不幸な蝶なのだ。わたしは不幸な蝶々などではない。結局、何が理由であんなに厭われていたかは不明だが、サヴァランではなくフィナンシエの妖精になれるのだからだいぶましだろう。

 生産者が誇らしげに語った話によれば、あの日のオークションでの最高金額はこのわたしだったらしい。それほどまでに散財して、サヴァランから奪い取ったのだ。きっといい暮らしが出来るに違いない。ひょっとしたら、わたしの買い取りが予想外の出費として圧し掛かる事もあり得なくもない。だが、そうだとしても、生産者が厭うサヴァランに引き取られるより良い結果のはずだ。

 それに、売れ残ってあのまま生家に居続けるよりはずっと幸せだっただろう。これは噂で聞いたに過ぎないことだが、オークションで買い手がつかなかった蝶の大半は子供を残す役目に回される。子を産む役目を担った蝶の女は年頃になると、ひたすら卵を産まなくてはいけなくなり、売られた良血妖精たちが楽しめるような娯楽も楽しむ余裕がなくなってしまうのだとか。

 わけあってその役目に適さなかった場合も恐ろしい未来が待っている。一部はそれなりの仕事を与えられ、生きる機会を手に出来るが、運が悪ければ命すら危ういのだとか。どうして危うくなるのかは分からないが、要は人間のためにならない妖精など生かしておいても意味がないということなのだろう。だから金額がどうであろうと売り手がついたこと自体、喜ばなくてはならないのだ。

 それに、と、共に馬車に乗りながらわたしは正面に座るフィナンシエの顔をじっと見つめていた。人間にしては、人間なりに、美しい顔と言えなくもない。赤狐の毛並みのような髪は美に煩いこの妖精の目でも綺麗に見えたし、その髪にぴったりな緑色の目もまた綺麗だった。見れば見るほどこの国の象徴に見合う明るい印象で、早くもわたしは彼の妖精になれたことを誇りに思っていた。

「マドレーヌ……ふむ、いい名前だ。実を言うとね、妖精と暮らすのは初めてなんだ」

 フィナンシエは不意にそう言った。

「昔、実家の方で花の妖精を養っていたことがあったのだが、あれは父の花でね。それも、私が大人になる前に若くして死んでしまった。それ以来、我が家に妖精はいなかったんだ。蝶の妖精となるとさらに縁がない。だが、私の友人アマンディーヌに勧められてね」

「ご友人……?」

 恐る恐るわたしが問い返すと、フィナンシエは目を輝かせて頷いた。その表情だけで、わたしはある事を察した。どうやらこのアマンディーヌという人物こそが、我が愛しの主人フィナンシエの心に潤いを与える重要人物であるらしい。

「私の幼馴染でね。子供の頃から蝶の妖精と触れ合ってきたらしい。野良妖精を手懐けたこともあったくらいだ。根っからの蝶好きでね、彼女も良血蝶々を一人養っている。オークションで競り落としたのではなく、懇意にしている生産者に直接オーダーして買い取った子なんだそうだ」

 そう言って、フィナンシエはこちらに笑いかけてきた。

「君と同い年の男の子でね。名前はビスキュイという。ゆくゆくは彼とも会える日が来るから、楽しみにしていなさい」

「はい、フィナンシエ様」

 そんなやり取りをしている間にも馬車はどんどん進んでいく。太陽の国の王都を横切り、移り変わる景色にわたしはふと気を取られた。

 わたしだって生粋の王都生まれではあるけれど、外のことなどあまり良く知らない。話には聞いていたけれど、知っているのは生家の建物と、二度ほど目にした生家からオークション会場までの道のりと、あとは今この目で見ている景色くらいのものだ。それでも、王都は話に聞いていた通りの景色が並んでいた。王宮はここから見えないけれど、中央広場の後ろに美しく立派な建物もあった。だが、残念な事にその建物が何であるのかわたしは知らない。人間たちの暮らしのことを学ぶ機会なんてなかったし、妖精は知る必要もないと教えられてきたからだ。

 馬車はそのまま走っていく。ありとあらゆる物珍しい景色を眺めながらつい夢中になってしまい、わたしはふとフィナンシエを振り返った。行儀が悪いと咎められやしないかと、ふと恐ろしくなったのだ。けれど、フィナンシエは全く気にしていない様子だった。ただにこにこしながらわたしを見ているだけだった。躾に厳しい御方もいると聞いていたけれど、もしかしたらわたしの主人は優しい人なのかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱いていると、馬車はさらに走り続け、王都の郊外へと向かっていった。そして、散歩道に最適な爽やかな緑に包まれた林道を走ってそう経たないうちに、その屋敷は見えてきた。

「御覧。あれが私の家だ」

 そして、微笑みながら付け加えた。

「今日からは君の家でもある」

 フィナンシエの指さす先に目を向けて、わたしはそのまま見惚れてしまった。

 念のために断っておくが、生家だって美的センスに富んだ建物だったと思っている。血統の良い蝶の妖精を生産するに相応しくあるためには、まずは見栄えを良くしたいというのが先代の女主人の意向だったらしい。その遺志を受け継いで、わたしの生産者とその家族も、家の内部にまでこだわっていたものだった。だが、わたしがこれから暮らすお屋敷は、はっきりと段違いだと言ってしまうほどの豪邸だった。

「姿が見えたはいいが、ここからだとあとしばらくかかるな」

 フィナンシエはそう言って、深く腰掛けながらわたしを見つめた。

「せっかくだから、さっきの話の続きを聞いてくれるかな? 近いうちに君が会うことになるアマンディーヌのお話だ」

「はい、喜んで」

 断る理由もないので大人しく頷くと、フィナンシエはほっとしたように笑った。

「よかった。では、聞いておくれ。そもそもアマンディーヌとの出会いは今から十年以上前のことで──」と、フィナンシエは堰を切ったように語りだした。その一言一句を聞き漏らさぬよう注意深く聞いているうちに、わたしは二つの事を知った。まず、アマンディーヌというその淑女が、ゆくゆくはわたしの女主人となり得る人物であるということ。次に、このフィナンシエという主人が、オークション会場でサヴァランと激しく競り合った人物とは思えないほど、繊細な性格であるらしいことだった。

「──とまあ、このような経緯で君を迎えるに至ったのだけれど、アマンディーヌも君を選んだ私の選択を褒めてくれてね」

 照れくさそうに語るその姿は微笑ましい。だが、いつまでも見ていたいという願いは叶わなかった。馬車が止まったのだ。話に夢中になっていたフィナンシエがはっと顔をあげた。

「おっと、いつの間に」

 いつの間にか、屋敷についていたのだ。フィナンシエは苦笑しながら言った。

「アマンディーヌの話で終わってしまったね。ビスキュイの話はまたあとでするよ」

 彼の言葉にわたしは失礼のないように頷こうとした。けれど、馬車の扉が開かれた先に広がる光景に、すっかり目を奪われてしまった。間近で目にするフィナンシエの屋敷──すなわちこれから暮らすことになる新しい我が家は、それほどまでに見事だった。

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