7章 未来の家族

1.主人たちの抱擁

 フィナンシエもアマンディーヌも、しばらく茫然とした様子で夜空へ飛び去って行くフランボワーズを見送っていた。しかし、ふと我に返ったのか、フィナンシエはすぐにわたしの肩に手を置いた。ゆっくりと視線を合わせてくる。フランボワーズが庇ってくれようと、叱られる時は叱られるだろう。そう覚悟していたのだが、フィナンシエは何か言う前にわたしの腕に視線を落とした。

「……マドレーヌ」

 困惑した様子で彼は呟くと、わたしの右手の袖を慌てて捲った。

「痣が出来ているじゃないか」

 言われてみて、初めて気づいた。いつ出来たものなのか思い当たる場面は一つだが、思い出したくもない。戸惑うわたしの代わりにビスキュイが口を開いた。

「ヴァニーユにやられたんだ。そうでしょう、マドレーヌ?」

 怯えた様子で叫ぶ彼に、アマンディーヌがそっと問いかけた。

「ヴァニーユって誰の事?」

 すると、ビスキュイはアマンディーヌと、そしてフィナンシエに即答した。

「サヴァラン様の妖精です」

 一気にその場の空気が冷たくなった。傍で聞いていたヴェルジョワーズの表情も険しいものになる。彼が嫌われていることはよく知っている。今となってはそれも当然だと思う。わたしは静かにフィナンシエを見上げ、ビスキュイの言葉に付け加えた。

「ビスキュイの言う通りです。サヴァラン様の妖精ヴァニーユに無理矢理手を引っ張られた時のものだと思います。……力は強いはずです。花蟷螂の妖精でしたので」

 その言葉に、空気はさらに重たくなった。フィナンシエの顔は見る見るうちに青ざめていった。その様子を見ていると、言ったことを後悔してしまいそうになった。その脇で、ビスキュイがアマンディーヌに縋りついて訴えた。

「ヴァニーユがマドレーヌを連れ去ろうとしたんです」

「何処に連れ去られそうになったんだ?」

 フィナンシエに問われ、わたしはしっかりと答えた。

「サヴァラン様のお屋敷です。間違いなくそこでした。あと少しで連れて行かれるところを、先ほどの妖精に助けられたんです」

「お屋敷に……?」

 ヴェルジョワーズが困惑気味に問い返す中、わたしはそれ以上語るべきかどうか迷ってしまった。しかし、言わないと。言わないと何も変わらない。わたしやビスキュイよりもずっと力があるはずの人間たちに彼の悪行を知って貰わないと。

「フィナンシエ様」

 わたしは彼の手を握った。これ以上、彼を動揺させるのは心苦しい。だが、勇気を出して、真実を口にした。

「サヴァラン様はお屋敷でわたしを殺すつもりだったのです。それも、自分の妖精の花蟷螂を使って。……あの方は異常です」

「他にも犠牲になった妖精がいるんです」

 ビスキュイもまたアマンディーヌに訴え続けていた。

「サヴァラン様は蝶を愛してなんかいない。本当に愛しているのは肉食妖精で、僕たちは彼にとって愛する妖精の餌でしかないんです。あの方に蝶の妖精を売ってはいけないんです。アマンディーヌ様、どうにかならないんですか?」

「ビスキュイ、落ち着いて」

 アマンディーヌは言った。だが、その声こそが震えていた。フィナンシエも同じだった。頭を抱えたままわたしを見つめていた。だが、溜息を一つ吐くと、捲った袖を丁寧に戻してくれた。

「前にも同じような事を言っていたね。サヴァランさんは落札した蝶を自分の蜘蛛の妖精の生餌にしているって」

 フィナンシエの言葉に、ヴェルジョワーズが動揺した。アマンディーヌも同じだ。二人ともショックを受けている。その表情で、わたしは理解した。やはり、他の人間たちは誰も知らなかったのだ。サヴァランがまさかそんな事をするような人だなんて。ヴェルジョワーズはぎゅっとシュセットの手を握る。いつもならば反発するシュセットも、今宵ばかりは大人しく手を握られていた。そんな状況下で、フィナンシエはじっとわたしの目を覗き込みながら訊ねてきた。

「何があったのか、これまでに君が見てきたことを、全部話してくれないか?」

 わたしはすぐに頷いた。全部、と言っても何処から何処まで話すべきだろう。かつてのわたしならば、全部というその命令に素直に従っただろう。しかし、今のわたしはその頃よりも従順さにやや欠ける。心の中でひっそりと話すべきことと秘密にすべきことを分けてしまってから、これまでのことを語りだした。

 内緒にすべきことはグリヨットたちの詳細だ。何処でどのように暮らし、これからどうするつもりなのかという詳細をフィナンシエに語るのは怖い。だから、上手い事ぼかしつつ、わたしはあの場所で体験した出来事を話したのだ。楽しかったことも、驚いたことも、そして悲しかったことも。その上で、今日を迎え、劇場の地下で見聞きしたことと、彼らに伝えたくて走っていったことを伝えた。

 今となってはかけがえのない仲間である彼らの危機を、黙って見過ごすことなんて出来なかった。その思いの丈をぶつけつつも、ヴァニーユに連れ去られそうになった顛末まで丸々語ったのだ。

「以上のことが、これまでにあったことです」

 ようやく語り終えると、フィナンシエはすっかり青ざめていた。

「ありがとう。君たちの事情はよく分かった。話を聞いているうちに、十歳は老けた気がするよ。まさか、大事に育てていた蝶が、こんなにも危険な綱渡りをしていたなんて」

「フィナンシエ様」

 いつの間にかアマンディーヌに抱きしめられていたビスキュイが、フィナンシエの顔色をじっと窺った。

「マドレーヌをどうか怒らないで」

 怯えている彼の顔に、フィナンシエは何度もため息を吐きながら頷いた。

「怒る気力もないよ。それに、今のこの時まで無事だったことを神に感謝しようじゃないか。だが、マドレーヌ。今の話が全て本当なら、サヴァランさんはきっとまた君を盗もうとするだろう。私はどうしたらいい」

 頭を抱える彼に、返す言葉もなかった。すると、黙って聞いていたヴェルジョワーズが口を開いた。

「マドレーヌ。今の話は私も覚えておきましょう。サヴァラン……あの男がいかに地位ある人とはいえどもね、こんな話を聞いて黙っているわけにはいかないわ。彼が二度と、蝶の妖精を買えないように掛け合ってみましょう。あとは、あなた達のことよ。フィナンシエさん、しっかりしてちょうだい。こういう時こそ器量の見せどころよ」

 シュセットが黙ったまま不安そうな顔をしている。わたしとビスキュイを見つめ、そして、ヴェルジョワーズを見上げてそっと何かを告げた。その言葉にヴェルジョワーズは頷くと、フィナンシエたちに向かって言った。

「今日はもう遅いわ。そろそろ帰りましょう。マドレーヌもビスキュイも、疲れているはずだから休ませないと」

 彼女の言葉にフィナンシエは黙ったまま頷いた。きっとシュセットが気遣ってくれたのだろう。そう思って、別れ際に声をかけようとしたけれど、彼女はちらりと視線をわたし達に向けただけで、すぐに顔を背けてしまった。その振る舞いは、いつもの素っ気なさとは少し違う、寂し気なものが含まれていた。

「さあ、おいで」

 フィナンシエに手を引かれ、帰りの馬車へと乗り込んだ。ビスキュイと、アマンディーヌも同じ馬車だった。

「今日はアマンディーヌたちも私の屋敷に来ることになっているんだ。今後の話し合いのためにね」

 その言葉にわたしはようやく、今宵の本来の目的を思い出した。

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