8.久しぶりの訪問

 歌劇の日以来、アマンディーヌの訪問は頻繁なものになった。彼女一人で来ることは稀で、ビスキュイが同行することが多い。まるで既に同居しているような感覚になるほど泊まっていくことも多くなった。もちろん、わたしがビスキュイの部屋に泊まることもあった。

 ビスキュイがわたしに見せたがっていた、いつもの暮らしを実際に体験してみると、この先の未来がもうすでに確定してしまっているような錯覚に見舞われる。グリヨットたちのことを忘れてしまえば、わたしはきっと良血妖精とはこういうものなのだと運命を受け入れていたのだろう。

 けれど、一度知ってしまったものをわざと忘れる事なんてなかなか出来る事ではない。日々の端々でふと思い出すのは、あの日以来、姿を見ていないグリヨットたちのその後の心配だった。度重なる脱走に、サヴァランとのトラブル。あらゆる悪条件が重なった結果、わたしのチョーカーはすっかり効力を失ってしまった。当然ながら、外を自由気ままにうろつく権利は失い、わたしとビスキュイに許された世界はお屋敷の敷地内か、二人のご主人様の隣しかなかった。

 だが、抗う気にもなれない。サヴァランの脅しは冗談なんかではない。そのことをわざわざ伝えに来たのが、風の噂でこの騒動を知ったヴェルジョワーズだった。彼女によれば、サヴァランの機嫌を損ねて、結果的に裁判沙汰になったり、あるいは示談によって私財を譲る羽目になった人物は他にも数名いるらしい。彼らが奪われたものは妖精などではなかったが、大切な家宝であったり、愛馬や愛犬であったりしたという。愛玩動物までも容赦なく奪うのであれば、妖精だって同じだろう。プライドが傷つけられることを何よりも嫌う彼は、どうやら人間たちにとってもかなりの危険人物であるらしい。

 ならば、せっかく助けてくれようとしている主人の足を引っ張るわけにはいかない。そう自分に言い聞かせ、心を落ち着ける日々を送っていた。幸いにも、わたしは一人ではない。ビスキュイと二人一緒であることは、わたしにとって幸運以外の何物でもなかった。特にここ最近は、不思議なくらいビスキュイと一緒にいることが楽しかった。ビスキュイと二人で過ごしていると、何となくこのまま二人一緒に人間に愛される良血妖精のままでいてもいいような気がしてくる。しかし、そうであろうとグリヨットたちを気持ちよく見送らなくては意味がない。結局のところ、わたしの思考はグリヨットたちが今どうしているのかという疑問と心配に行き着くのだ。

 そんなわたしの想いが届いたのだろうか。ビスキュイの部屋で二人きりで過ごしている白昼、わたしは久しぶりに彼女の姿を目にしたのだ。

「グリヨット!」

 夢でも幻でもない。最後に見た時はヴァニーユに食べられかけてぐったりとしていた彼女が、ガラス張りの壁の向こうで笑顔を向けてきていた。傷は……そう軽いものではなかったのだろう。いたるところに包帯が巻かれ、その下からは生傷が見え隠れしているところもある。しかし、元気そうだ。いつも目にするグリヨットと変わらないその振る舞いに、わたしは心から安堵した。そんなグリヨットに手招かれると、わたし達は慌てて彼女の元へと寄っていった。ビスキュイと二人ほぼ同時に壁に手を突くと、期待通り声は聞こえてきた。

『久しぶり』

 届く声も元気そうだった。わたしがほっとする横で、ビスキュイが問いかけた。

『傷はもう大丈夫?』

 すると、グリヨットはいつもの太陽の輝きのような笑みを返してくれた。

『平気! ジャンジャンブル先生もね、呆れるくらいの生命力だって言ったくらい元気いっぱいだよ。でも、それもこれもマドレーヌとビスキュイのお陰なんだってフランボワーズ様から聞かされていたの。だから、今日はお礼を言いに。本当にありがとう』

『そっか、わざわざありがとう。グリヨットの元気そうな顔が見られてよかった』

 そう返すと、グリヨットはにこりと笑い、そして、少しだけ寂しそうに地面を向いた。『それでね』と、少しだけもじもじしたかと思うと、上目遣いになりながら彼女は言った。

『謝りにも来たの。あたし達……ううん、あたしのせいで、マドレーヌもビスキュイも立場が悪くなってしまったんじゃないかって』

『グリヨットのせい? どうして?』

 ビスキュイが訊ねると、グリヨットはまっすぐこちらを見つめた。

『あたしのせいだから。二人が良血さんらしくなくなっちゃったのって。前まであたしはそれが正しいって信じて疑わなかったの。視野は広い方がいい。同じ妖精なんだから、みんなもっと自由を知るべきなんだって。でも、違ったかもしれない。今回の事で、それを初めて感じたの。視野が狭いのはあたしの方だったかもって。あたし達とは違っても、良血さんには良血さんの幸せがあるんだって……』

 グリヨットは泣きそうになりながら言った。

『マドレーヌはさ、連れて行かれそうになったんでしょう? もしも、あと少し、フランボワーズ様が駆けつけるのが遅かった……ううん、考えたくもない。あたしのせいで、マドレーヌが死んでしまっていたら、あたしはきっと一生後悔していた。そう思うと、急に怖くなっちゃったの。ああ、今まで安直だったかもって。あたしが二人に声をかけなければって──』

『そんなことないよ!』

 わたしは慌ててグリヨットに伝えた。

『わたしはグリヨットに感謝しているよ。色々教えて貰えて良かったって思っている。それに、あの時、わたしやビスキュイがいなかったら、グリヨットこそ死んでしまっていたかもしれないもの……』

 間違いなく、そうだっただろう。フランボワーズ一人の目では、見つからなかったかもしれない。見つけられたとしても、真庭無かったかもしれない。そう思うと、あの時、勇気を出して飛び出せてよかったと心から思える。それに、視野が広がったことを後悔などしていない。知らないまま一生過ごすよりも、選択できる今の方がいい。そう思えたのだ。

『僕もマドレーヌと同じ意見だよ』

 ビスキュイが言った。

『確かに何も知らないままだったら、疑問も持たずに幸せに暮らせたかもしれないけれどさ、その幸せはとても不安定なんだ。いつ壊れるかも分からない。壊れないことを願うしかない。でも、妖精の世界だってもっと広いんだ。グリヨットたちのようにさらに広げようとしている仲間たちもいる。もっともっと選択できることがあるかもしれない。それを知れただけで、全然違う。だから、僕も感謝しているんだ。君は僕たちに考える機会をくれたんだよ』

 ビスキュイの言う通りだ。グリヨットと出会ったからこそ悩むことが出来る。決まってしまった未来に対して疑問を持つことが出来る。全てはグリヨットのお陰でもあるのだ。そんな気持ちが通じたのか、グリヨットは笑みを浮かべた。

『そっか。そう思って貰えるのなら、良かった』

 そして、彼女は再び悲しそうな笑みを浮かべた。

『でもさ、焦らずによく考えてね。ここは二人が暮らすに相応しいお城だもの。……あのね、実を言うと、今日会いに来たのはお礼や謝罪を伝えるためだけじゃないんだ』

 グリヨットは静かに告げた。

『今日はね、お別れを言いに来たの』

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