第136話 夜の橋上
とん、とルーフで音がした。歩道橋の上から落ちてきた雨粒がルーフを叩く。そんな音だった。
金属を引き裂く音と共に、何かが車内に入り込んできた。銅板どうばんをベースに作られているランチャのルーフから新聞紙を突き破るように易々と侵入してきたのは、浅黒く異様なまでに大きな拳を持った人間の腕だった。
「うひゃぁ!」
驚きと恐怖が綯交ないまぜになった鳴倉の悲鳴は、子供のように甲高く澄んでいた。それを聞いた小僧犬がまた馬鹿笑いを始める。
「来た。来ましたよ奴が!」
ルーフから突き出した腕が左右に揺れる。誰でもいいからとにかく捉とらえようと空を掴つかむ掌てのひらは、目の見えない大蛇のように運転席の中をのたうち回っている。
「やだ。やだっ。怖い」
ハンドルを握りながら伸びてくる腕から逃れようと身を捩よじるせいで、ランチャの車体が左右に揺れる。そのせいで助手席の小僧犬が構えるシグザウエルの銃口があちこちに移動する。
「ハンドル切るんじゃねぇ鳴倉。撃ちにくいだろうが」
頭を殴られたような轟音ごうおんが車内に響く。小僧犬がルーフに向けて銃を撃ったようだが、激しく揺れる車体のせいで弾丸は方向違いのリアウィンドウを粉砕し、細かいガラス片を車内に飛び散らせた。
「ブレーキだ。野郎を吹っ飛ばせ」
この速度で急ブレーキを踏ふめば、屋根の上の怪物は慣性かんせいの法則によってランチャの前に放り出されるはずだ。
「ブレーキぃ」
右足を思い切り踏み込んだ。だがブレーキに届くはずの右足は虚むなしく空を蹴り、同時に万力で固定されたような強力な圧力を側頭部そくとうぶに感じた。痛みは少し遅れてきた。巨大な五本の指が、鳴倉の頭骨に喰い込んでいる。まるでクレーンゲームのように、鳴倉の体が持ち上げられランチャのルーフから引き出されていく。
鳴倉の足がハンドルに当たり、その度にランチャのクラクションが鳴響なりひびいた。ハンドルは助手席の小僧犬が握っているらしく走行は安定していたが、アクセルを踏む者が消えたせいで、ランチャの速度は目に見えて落ちていく。
上半身を車外に引き吊り出された鳴倉は、自分を捕らえた怪物と顔を突き合わせた。荒れ放題の髪を風に靡なびかせ、怪物は牙を剥むき出しにして笑っていた。恐怖に引き攣つる鳴倉の顔が、赤黒い炎を宿した怪物の瞳に写り込んでいる。左手一本で軽々と鳴倉を引き出した怪物は、ランチャのルーフに膝を付き、右手で車体を掴んで全身を固定していた。
「なんだ、外はずれかよ」
おみくじ箱ではずれを引いてしまったような声で怪物が自嘲気味じちょうぎみに笑う。変身前の岡城真由美の笑い声など知らないが、少なくともここまで重く不気味な声ではなかったはずだ。
怪物の前腕が急速に膨ふくれ上がり、それに伴って鳴倉を掴む圧力が増していく。このまま鳴倉の頭をトマトでも潰つぶすように握り潰すつもりなのだろう。
頭蓋がぎちぎちと音を立てて締め付けられていく。怪物を見ていたはずなのに、いつの間にか鳴倉の視界は赤一色に塗ぬりつぶされていた。 強い衝撃を受けると眼底がんていで出血がおこり、血のカーテンを引いたように視界が赤くなると聞いたことがある。ああこれがそうなんだなと感じる余裕があることを不思議に思いながら、迫りくる死の予感に鳴倉は震えた。
「パフェット」
意識の無くなる直前、若い女が異国の言葉でそう呟つぶく声を、鳴倉は確かに耳にした。
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