第3話 円月輪 十六夜

 瓦礫の底で、勇者は目を開いた。鼻孔びこうから進入する容赦のない異臭に咳き込みながらも、上体を起こし、顔を覆っている黒い粘液ねんえきを両手で拭い落とした。


 油断ゆだんしていた。オオカミの首だけに注意を払っていたせいで、無防備な状態で呪詛を受けてしまった。強力な呪詛は物理攻撃に等しく、勇者の全身は強力なさんを浴びせかけられたのも同然のダメージを受けているはずだった。それなのに、勇者の体に新たな傷はみつからなかった。


 勇者はふところに手を差し込み、金龍から引き抜いたひげを取り出した。手綱ほどの太さだった龍の髭は、依然いぜんまばゆいほどの光を放ってはいたが、糸絹きぬいとのように細くなっていた。


「これに助けられたのか」


 勇者は手にした龍の髭を、前髪の一本に結び付けた。束の間つかのま黄金色に輝いた龍の髭は、やがて勇者の髪の毛と同化して見えなくなった。


 体に絡みついた粘液を拭い去ると、勇者は瓦礫の中から魔王と女の顔を持つ怪物を見上げた。


「もう一度あれを受けたら、助からないな」


 上空を旋回せんかいするオオカミの怪物を見上げながら、勇者は呟いた。


 周囲を見回すと、ほのかに赤く光る魔刀が落ちているのが見えた。自分の右手には、青い光を刀身に留めたもう一振りが握られている。


 故あって手に入れた伝説の魔刀だった。左の一本を玉鋼眉月たまはがねまゆづき、右を玉鋼有明たまはがねありあけという。勇者であるなら光の属性ぞくせいを持つ聖剣せいけんを使うべきだと、三賢者のひとり、剣の師であったランスロットは言いつのったが、勇者は自分の手に馴染なじむ二振りの魔刀を手放さなかった。


 魔法効果の残したまま、赤く光る眉月を拾い上げると、勇者はその場に胡坐をかき、再び呪文詠唱を開始した。詠唱の声が力強く響き始めると、それに呼応して両手の魔刀も輝きを強めていく。


 瓦礫の上を飛行する魔王は、勇者が落下した辺りの瓦礫の底からあふれ出す強烈きょうれつな光を目にした。かたわらを飛行するスキュラに目を向けると、六つの首に囲まれた主人格である女の顔が、困惑こんわくしたように魔王を見返していた。


「行け。殺せ」


 女の顔が六つのオオカミの首の中にもれると、スキュラは光に向かって突進とっしんを始めた。




 輝きが限界点げんかいてんに達すると、魔刀は輝きを黒い刃の内側に閉じ込めた。にぶく輝く魔刀を両手に下げたまま、勇者は立ち上がり深呼吸をした。頭上からは飢えたオオカミのうなりと吠え声が大地を震わせる勢いでひびいてくる。魔刀でスキュラを攻撃するには刃が届く範囲まで接近しなければならない。勇者の今の実力では、魔刀を構えたまま遠距離攻撃魔法を放つことはできないからだ。だが距離を詰めようとすれば、スキュラは再び女の顔を勇者に向け、呪詛による攻撃を仕掛けてくるだろう。


「困ったな」


 憎悪をき出しにして吠え狂うほえくるうスキュラに目を向けた勇者の顔に、困惑が浮かぶ。


「こんな状況なのに、少し楽しい」


 不適ふてきな笑みを浮かべた勇者の頭上に、スキュラが姿を現した。




 スキュラの目は、勇者が両手に持つ魔刀を捉えていた。刀身に光を留めた魔刀は、強力な魔法効果を付与されている。スキュラは突進の速度を落とし、オオカミの首を左右に分けた。首を掻き分け、中央に現れた女の顔は、正面に立ち尽くす勇者の姿を見て、舌なめずりを始めた。憎悪を込めた呪詛を吐き出そうと、女は口を開き大量の空気を肺に取り込み始めた。




 勇者の両手が体の前で交差した。両手に持つ二振りの魔刀のなかごを重ね合わせると、魔刀はひとつの輪と化した。重なり合った茎に指を掛け、勇者は全身を回転させ、円環えんかんと化した魔刀をスキュラに向けて投げつけた。互いを憎み合う父と息子が、互いを殺そうと心血しんけつを注いで打ち上げたそれぞれの魔刀だったが、茎を中心に重ね合わせ円形にすることで、憎しみを浄化じょうかした清浄せいじょうなる刃へと変化する。


緋緋色金ひひいろがね円月輪えんげつりん十六夜いざよい


 黄金色に輝く円月輪は、空気の抵抗を受け複雑な軌道きどうを描きながら、女の顎下あごしたへ飛んだ。熱したナイフでバターをそぎ落とすように易々やすやすと女の顔をそぎ落とした円月輪は、スキュラのさらに上空にいた魔王の鼻先をかすめた後に、半円を描いて勇者の手に戻っていった。


 円月輪に切断された女の顔は地響きを立てて、勇者の前に落ちた。スキュラ本体である女の顔は、首から斬り落とされて尚生きていた。女の眼は勇者をにらみ、唇は再び呪詛の声を浴びせかけようとめくりあがる。


「やめましょう」


円月輪を分け、元の二振りの魔刀に戻し鞘に納めると、勇者は女の顔に向けて静かに声を掛けた。 


「あなたは美しい。これ以上傷つけたくはありません」


 勇者の言葉に、女の顔は驚いたように目を見開く。女の顔から、禍々まがまがしさが抜け落ちていく。


「こんな形でしか、あなたの呪いを解けなかった。わたしの力の無さを許してほしい」


 女の瞳に涙が浮かぶ。まぶたを閉じると、一粒の涙が女の頬を伝い落ちた。


「休んでください」


 勇者の右手が女の頬に触れると、女の顔は眩い光を放ち、やがて消えていった。


「甘いのう」


 見上げた先に、スキュラの背に立つ魔王がいた。本体であるはずの女の顔を斬り落とされても、スキュラ本体はまったくダメージを受けていないように見える。


「尻の軽い女だ。甘い言葉に釣られて、己を切り刻んだ男を許すとは」


 オオカミの頭のひとつをでながら、魔王が皮肉ひにくめいた笑みを浮かべる。


しつけが足りなんだわ。不死身の怪物と聞き、買い被った結果がこれよ」


 魔王の手が撫でていたオオカミの頭を鷲掴わしづかみにする。


「フロガ・エオーナ」


 薄笑いを浮かべた魔王が呟くと、魔王に頭を鷲掴みにされたオオカミの頭から炎が上がり、瞬く間またたくまにスキュラの全身が炎に包まれた。


 六つの首それぞれが苦痛の叫びをあげ、スキュラは空中でのたうち回った。全身を覆う炎は、いくら足掻あがいてもスキュラの体から消えずに燃え続けている。


「ほうら、良い子だ。苦しみから逃れたくば、その男を噛み殺せ」


絶望に血走った眼を魔王から勇者に向けると、炎に包まれたスキュラは地上に立つ勇者目がけて突進を始めた。


むごいことを」


 突撃してくるスキュラに目を向け、勇者は右の魔刀を引き抜いた。氷の魔法を付与されていた玉鋼有明は未だ刀身にあおい光を留めていたが、魔法効果はかなり薄れているに違いなかった。


 フロガ・エオーナは、永遠に消えることない炎で敵を焼き尽くす術だ。フロガ・エオーナで全身を焼かれているスキュラは、不死身の体を持つがゆえに、焼け死ぬことなく苦しみの中で永遠に再生を続ける。


 勇者は帯革に下げた革袋かわぶくろから、小さな木の実を取り出し、そのままにぎりしめた。


「フロガ・ミクロン」


 呟くと同時に、勇者の右手がかすかに赤く輝いた。フロガ・ミクロンは炎系魔法の初級コースで習得する、てのひらを温めるだけの簡易かんい魔法だった。


 勇者は掌を開くと、握りしめていた木の実を口の中に放り込んだ。


 勇者の体がほんの一瞬だけ、紫に輝いた。同時に、周囲の動きが緩慢かんまんになっていく。おそい来る炎のスキュラや、降り注ぐ瓦礫の破片のスピードが極端きょくたんに落ち、停止したような世界の中で、勇者は呪文詠唱を開始した。


「喰い殺せ」


 上空から勇者を指差ゆびさし、スキュラをけしかけた魔王は、地上の勇者が何かを口にふくむのを見た。特殊効果とくしゅこうかを持つ魔法樹まほうじゅの実かなにかだろうと見当をつけたが、今更いまさら肉体をいくらか強化しようが、それでどうなるものでもないと高をくくった。魔法樹の実の中には、厄介な特性を肉体に付与するものがある。だが大抵の場合、強い力を持つ実はもいだその場で食さなければ効力を発揮しない。持ち運んで口にできる程度の魔法樹の実に、過剰かじょうな警戒は必要ないと判断した。


 炎に包まれたスキュラは、六つのオオカミの口から牙を剥き出しにし、勇者に襲い掛かった。スキュラの戦闘力は、肉弾戦にくだんせんとなれば飛びぬけている。生身の人間である勇者に、勝ち目などありはしなかった。


「バゴス・テリコス!」


 叫ぶ勇者の声を聴いて、魔王は眉をひそめた。人間である勇者が、凍結とうけつ魔法最高難度のバゴス・テリコスのような強大な魔法術式まほうじゅつしきを使用するには、強い精神力と長い呪文詠唱が必要だった。勇者は詠唱などせずにただ術式を叫んだだけだ。魔法など発動するわけはない。


 勇者の魔刀が眩い光を放ち始めた。青く輝く魔刀を逆手に持った勇者は、腰を落とし微動だにせず、襲い掛かるスキュラを待ち受けていた。


 スキュラの巨体が勇者の体をおおう瞬間、魔王の視界から勇者の姿が消えた。人の筋力の限界を遥かに超える速度で勇者の体が動いていたた。


「馬鹿な」


 尋常じんじょうでない速度で、勇者はスキュラの顎に向けて跳躍していた。その行動は、勇者が自分からスキュラの顎へ飛び込んでいったようにさえ見えた。


 スキュラが勇者を噛み砕く寸前すんぜん、両者の動きが空中で停止した。勇者の持つ魔刀、玉鋼有明の切先が、燃え盛るスキュラの首のひとつに突き刺さっていた。


 スキュラの全身を包む煉獄れんごくの炎は、スキュラの首元にぶら下がる勇者の体を焼くことはなかった。突き刺さった魔刀の冷気は、燃え尽きることのない煉獄の炎ごとスキュラの全身を包み込み、氷漬けにしていた。


 炎をまとった氷の彫像ちょうぞうと化したスキュラの首から、勇者が魔刀を引き抜いた。それと同時に、氷漬けのスキュラの体は無数の氷塊ひょうかいとなって砕け散った。


 大地に降り立った勇者に、無数の氷の結晶と化したスキュラの体が降り注いだ。魔王城の縦穴たてあなからわずかに侵入してくる太陽の光が反射して、降り積もる氷の結晶はきらきらと輝いて見えた。


「永遠の終わりだ。眠るといい」

 

 頬に付着した氷の粒を拭い、勇者は消えゆく怪物にもくとうを捧げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る