第170話 訓練開始

 やたらと蒸し暑い日だった。熱中症を警戒して、夏場の防災訓練は毎年、陽の当たらない地下のコンコースで行われる。今年も例外なく地下を使用しての訓練だったが、40度に届く勢いの外気を完全に遮断しゃだんできるはずもなく、空調が効いているはずの地下でさえも蒸し暑い。


 武器を所持した二人組が暴れているとの連絡を受け、現場に警備員五名が急行。一人が通行人の避難誘導を行い、一人が警察へ通報、残り三人で暴漢役の警備員を取り押さえるというのが防犯訓練のシナリオだ。


 南条は現場急行し、陣頭指揮じんとうしきりながら犯人役二人を確保する役目だった。犯人役の一人が甘王であったが心配はしていなかった。幾ら元魔王でも、今は人間甘王隆として給料を貰っている身だ。普段の仕事ぶりからして、卒なく淡々とこなして黙って帰宅するだろう。


 大規模な訓練とあって、雇い主の東京サンツリーの社長と、南条たちが務める警備会社の社長も見学に来ている。失敗したら叱責しっせきされるだけではすまない。それだけに参加する警備員たちは緊張気味だ。


 午前9時から訓練は開始する予定だ。ショツプの大半が11時開店だから、それ以前に訓練を終了しなければならない。

 犯人役は甘王と、夜勤の責任者を務めるシノダという40男だった。二人はコンコースで大声を上げ、武器を取り出して通行人を恫喝どうかつし始める。それを合図に、訓練は始まる。


 8時59分になった。新品の警備服に身を包んだ南条たち5人はスタンバイしている。だが、肝心の犯人役の二人が姿を見せない。識別しきべつしやすいように、犯人役はオレンジ色のつなぎ姿で、訓練中と書かれたプレートを首から下げている。群衆にまぎれていたとしてもすぐに判る。


「あれ、どうしちゃったんでしょうね。あの二人」


 背後から新人の秋津川が囁く。何が気に入らないのかしらないが、秋津川は最初からこの訓練に乗り気ではない。


「つなぎに着替えていたのは見た。どこかにいるはずだ」


 嫌な予感がした。甘王はともかく、相方のシノダは真面目で神経質な男だ。いい加減なことはしない。そのシノダまで姿を見せないとなると、なんらかのアクシデントが発生したのかもしれない。


 一般客が入り込まないよう、地下エリアは封鎖してある。二人が姿を現せばすぐに判る。

 ギャラリーたちがざわつき始めた。このままではトラブルになりかねない。

 

 9時になると同時に、地下通路に男の高笑いと巨大な鐘の音が鳴り響いた。同時に通路の照明が明滅を繰り返す。

 ギャラリーの一部から驚きの声が上がる。訓練の中の演出のひとつだと思っているのだろうが、こんな設定などありはしない。

 正確に九つの刻を告げると、笑い声と鐘の音は沈黙した。明滅を繰り返していた照明も、照度を落としてはいるが復旧した。

 通路の中央に甘王が立っていた。予定にはない漆黒しっこくのマントを羽織はおっている。


「ご来場の皆々様、おはようございます。本日はサンツリー警備隊が主催する夏の防犯訓練にご参加いただき、誠にありがとうございます。わたくし、本日の悪役を務めさせていただきます、この世界に転生してきた異界の魔王、タカーシ・ア・マオウでございます」


 こんな演出は予定に無い。だがこの場にいる誰もが、防犯訓練の演出だと信じて疑っていない。南条としても、甘王の出方が判らない限り、手の出しようがない。


「この防犯訓練をより効果的に、より実戦的に実施する為に、魔王であるわたくしの手で、シナリオに若干の変更を加えさせていただきました。どなた様も訓練終了まで存分にお楽しみ下さい」


 そこで言葉を区切り、甘王は周囲を睥睨へいげいして不敵ふてきな笑みを浮かべた。


「もっとも、訓練が終わるかどうかはあなた方次第なのですけどね」


 再び鳴り響いた甘王の高笑いと共に照明が消えた。灯りが付くと、甘王の姿は消えていた。


「ちょっとこれどういうことなんだ南条くん。こんなの聞いてた?」


 古参警備員のワタナベが南条に耳打ちしてきた。こんな変更など知るわけがない。会社側が許可を出すはずもない。だとしたらこれは、言葉通り甘王が仕掛けてきた新しいシナリオだ。


「ワタナベさん、気をつけて辺りを観察して下さい。敵はどんな手を使ってくるかわかりませんが、事前の訓練通りやれば対応可能なはずです」


 魔王としての力が復活し、人類との戦いを開始する気ならこんな回りくどい手は使わないはずだ。ならばこれも、甘王流の訓練シナリオの一環だと考えた方がいい。


 静まり帰ったコンコースの床が不意に動き出した。重い金属を引きずるような音を立てながら、コンコースにあるマンホールのふたが開き始めた。


 蓋が開き切ると、なんとも言えない不快な臭いが辺りに立ち込める。腐敗臭に似ているが、微妙びみょうに違う。どこかで嗅いだことのある臭いなのだが、思い出せない。

 開いたマンホールから、人間の手が現れた。のろのろと動く手は、コンコースの床を支点にして体を持ち上げる。汚れ切ったオレンジのつなぎ姿で現れたのは、犯人役の一人であるシノダだった。


「うわ臭ぇ。この臭いって、夜勤明けのシノダさんの足の臭いですよ」


 鼻をつまみながら、通報役のマエダが声を上げる。確かにシノダは常にこんな感じの臭いをただよわせている。独身で一人住まいだから、部屋干ししかできないシノダの衣服からは常に生乾きの臭いがする。


 マンホールから這い出たシノダは、辺りを見回しながら周囲を徘徊はいかいしだした。目はうつろで、開け放した口からは意味不明の呻きと共に緑の液体を垂れ流している。


「うぇ~。ちくしょう、む~か~つ~くぅ。なんでもかんでもオレに仕事振りやがってよぉ~。なんでオレばっか訓練やらせるんだよ~、なんでオレばっかいっつも犯人役なんだよ~」


 シノダの口からは呪詛じゅそに似た声が漏れ聞こえてくる。何を頼んでも二つ返事でやってくれる人のいいおじさんとういう印象しかないシノダが、露骨ろこつに不満を口にしている。


 よろよろと動くシノダが、通路にいる避難役の訓練参加者たちに近づいていく。

 明らかに異様なシノダの姿を見ても、避難民役として駆り出された参加者たちは演出のひとつと信じて動かない。


「ストレスに耐えかねた気の毒な男は、あわれなストレスゾンビと化し人々を襲い始めます。お気をつけ下さい。彼に腕を掴まれた者もまた、彼と同じストレスゾンビと化してしまうのです」


 辺りに甘王の声が響く。どこかのテーマパークを模倣もほうした口調が鼻に着く。


 シノダの手が、仕立ての良い黒のスーツに身を包んだOL風の女の腕を掴んだ。女は小さく悲鳴を上げたあと、怒りのまなざしをシノダに向けた。


「ちょっとどういうこと?こんなの聞いてないんだけど。責任者は?セキニン・・・・・」


 女の体が激しく震え始めた。口を開き、舌をだらりと突き出すと、天をあおぐように顔を上に向けた。


「あ~い~つ~、あのバカホスト~、あたしの誕生日にマグカップって、ふざけてんの?幾らつぎ込んだと思ってんのよ。どうしたらあんなバカなマグカップなんか送りつけてこれんのよ~」


 白目をき、口から緑の涎を垂れ流す女の顔は、シノダと同じだった。これが甘王の言うストレスゾンビなのだろう。


「魔王、甘王、卑怯だぞ。姿を見せろ」


 地下通路に響き渡る勢いで声を上げた。南条の知る以前の魔王なら、こんな言葉で姿を現したりはしない。だが今の魔王の半分は、人間甘王隆だ。


「ルールを説明する前にゲームを始めるのは確かに無作法ぶさほう。お詫び申し上げよう」


 消えたのと同じ場所に私服姿の甘王が姿を現した。魔法で消えていたのではなく、闇に乗じてマントを脱ぎ捨て、周囲に溶け込んでいたらしい。 

 

「ルールはシンプル。正義の警備員諸君は、ゾンビ感染源であるわたしの体に触れ、大きな声で一言、魔王捕まえた!と叫べばいい。それだけで全ては元通り。訓練は無事終了・・・・・」


 魔王の言葉が終わる前に南条は動いた。魔王に触れさえすれば、この茶番は終わる。

 残像が残るほどの速度で移動し、三歩で間合いを詰めた。同世代の人間と比較しても身体能力の低い甘王に触れることなど造作もないことだ。

 

 あと数センチで魔王の体に指先が届くというところで、複数の手が南条の腕に向かって伸びてきた。伸ばした指先を引き、南条は後方へ飛んだ。


 複数のゾンビが魔王を囲むように立っていた。ゾンビに腕を掴まれたら最後、南条もまたストレスゾンビと化してしまう。シノダとOL二人だけだったストレスゾンビは、短時間のうちに十数体にまで増えていた。


 感染してからゾンビ化するまでの時間が早い。シノダに腕を掴まれたOLの例からしても、発症までの時間は十数秒と考えた方がいい。一刻も早く魔王の体に触れなければ、ゾンビは短時間で爆発的に増える。


 ここにきてようやく、参加者たちも事の異常さに気づいたようだ。徘徊するストレスゾンビたちから距離を取ろうと動き出している。闇雲やみくもに叫びださないのは、未だこれが訓練の一環だと信じているからだ。


「ワタナベさん、マエダさん。訓練通り、避難者をツリーロビーへ誘導して下さい」


 ツリーロビーとは複合ビル中央にあるエントランスロビーだ。百人に近い訓練参加者をそこまで誘導して自動ドアの電源を止めて犯人たちと隔離する。当初の訓練シナリオではそうなっている。


「わかった。で、でもこれって、本当に訓練なんだよね南条くん」


「甘王がそう言ってる限り、訓練だと信じるしかないでしょう」


 訓練であるはずだ。魔王が本気で攻撃を仕掛けてきたにしては、やり方が手緩てぬるい。

 南条もまた、訓練の一環であると信じたからこそ、目の前に立ち塞がったゾンビどもを蹴散らさなかった。これが実戦なら、例え参加者が重傷を負うことになろうと構わず、躊躇ちゅうちょなくゾンビどもを粉砕ふんさいし、甘王の体に触れて戦闘を終わらせている。


「どうしたの、タクちゃん、怖いよ」


 大手のハンバーガーショップの制服を着た若い女が、同じ制服を着た男から後退あとずさる。いつも仲良く受付の前を通るこの二人を、南条は覚えていた。おそらく二人は恋人同士だろう。


「なんでだよ~。なんで処女じゃないんだよ~、今まで誰とも付き合ったことないっていってたじゃん」


 ゾンビ化したタクちゃんが女の腕を掴んだ。掴まれた女は、ヒッと声を上げて腕を振りほどこうとしたが遅かった。


「なんで大学中退してんのよ~あんた~。一流大学に行ってたから付き合ってやったのに~」


 女の形相ぎょうそうが変わった。ゾンビに掴まれたら確実にゾンビ化する。


「こっちですよ~。皆さんこちらに避難してくださ~い」


 浮足立うきあしだつ避難民をワタナベが誘導する。古参だけあって手慣れている。ワタナベの誘導に従って、避難民はロビーへと続くエントランスに吸い込まれていく。あちらはワタナベに任せて心配ないようだ。

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