番外編 Day of the working dead.

第169話 獣の巣穴

「はぁ~」


 また溜息ためいきが出た。いつからこうなったのかは忘れたが、普通に呼吸するより溜息混じりで息をくことの方がはるかに多い。

 

 通勤途中の地下鉄のドア付近に立ち、暗闇しか見えない窓の外をながめている。

 秋津川友宏は今年で24歳になる。警備員として、サンツリー東京という大型複合施設で勤務して3か月ほどになる。


 自宅から職場まで、地下鉄を使って20分ほどだ。普段は座れるのに、今日に限って地下鉄の座席は全て埋まっていた。いつものルーティンが使えないだけで、溜息の数は倍増する。


「失礼しました。気づきませんでした」


 停車した駅から乗り込んできた女性に、席をゆずっている男がいた。同じ警備会社に勤める南条という名の先輩だ。


「でました光の勇者様」


 思わずつぶいていた。同じ会社の先輩である甘王が、南条のことをそう呼んでいる。


  三歳ほど年上の南条は気さくないい先輩だったが、秋津川はどうにも好きになれなかった。

 なんというか、あまりにいい人過ぎて嘘臭い気がした。南条という男は、こんな人間が本当にいるわけないと突っ込みたくなるほどの好青年なのだ。


「なんだあいつ、好みのタイプだったのかな?」


 ぶつぶつ独り言をいう秋津川を見て、近くにいた若い女が距離を取った。可愛い子だったがどう思われようと関係はない。どうせ相手になどされないのだ。

 

 目をらしてみると、女の持つカバンから答えが見つかった。お腹に赤ちゃんがいることを告知するバッジを、女はカバンにつけていた。


「優先席でもないし、パッと見、お腹が大きいわけでもないのに、ご苦労様ですねぇ勇者様は」


 電車が停まり、ドアが開いた。秋津川が降りる駅だから、当然南条もここで降りるはずだ。


「あの、ありがとうございました」


 女が立ち上がって南条に声を掛けた。お腹に子供がいるのに他の男に色目を使うなんて最低な女だと思った。


「お気遣きづかいには及びません。どうぞお気をつけて」


 そういってホームへ降りていく南条の姿を、女はいつまでも見つめていた。まったくもって不愉快な光景だ。偽善的で自己満足に酔いしれているような南条の姿を見ていると本気で腹が立つ。




 休憩時間に、甘王が仕事をしている地下の詰所つめしょを訪ねた。


「どうしました後輩秋津川さん。今は休憩時間ですよね」


 振り返りもせずに甘王が声を掛けてきた。入社してすぐに、秋津川に教育係としてつけられたのが甘王だった。年齢こそ二歳下だが、仕事上では先輩に当たる。


「防犯訓練、甘王くん犯人役だったよ」


「朝、センター長から聞きました。後輩秋津川さんは警備側だそうですから簡単ですよ」


 来週、行われる防犯訓練の話だ。一年に一度、犯人役と警備員役に分かれて大がかりな防犯訓練を行う。その人選の中に、秋津川と甘王の名前が挙がっていた。


「それはいいんですけど、警備役のリーダーがあの人なんですよ」


 背中越しだが、明らかに甘王の雰囲気が変わったのが判る。この話になると、甘王は必ず喰いついてくる。


「アホ勇者か」


 ささやきに近いのに、甘王の声はよく聞こえた。まるで頭の中に直接響いてくるようだ。


「そう、あの人。光の勇者様です」


 ときどき甘王は、南条のことを光の勇者と呼んで馬鹿にしている。南条を揶揄やゆするのにぴったりだと思ったから、秋津川も影では南条のことを勇者様と呼んでくさしている。


「そういえば今朝見ちゃったんですけど・・・・・」


 今朝、地下鉄の中で見た出来事を甘王に話して聞かせた。当然、一緒になって南条の悪口を言ってくれると思っていたのに、返ってきたのは意外な反応だった。


「それのどこが偽善なんですか?」


 話を聞き終えた甘王がそうたずねてきた。


「えっ?だから、あの、カッコつけてるっていうか、いい人ぶってるっていうか」


 心底判らないという面持ちで、甘王は首をひねっている。


「それって、誰に対してカッコつけていい子ぶってるんでしょうね。それでその行為をすることで、あやつに何の得があるのだろうな」


 どこかの方言なのだろうか?時々甘王は、老人のような言葉遣いをすることがある。


「譲った女の人からも好意を寄せられちゃったりして、自己陶酔じことうすいして喜んでるんじゃないかな」


「その場限りの赤の他人じゃろう、その女は。おまけにおそらく相手は既婚者じゃ。色恋に発展する可能性は限りなく低い。その程度のことは理解できるじゃろう、いくら馬鹿でも」


 自分のことを馬鹿だと言われているような気がして、少しだけむっとした。


「だからそういうことする自分がカッコいいとか思って、いい気分にひたってるんですよ、あの人は」


「そうなのか?そんなことでいい気分に浸れるのか人間は。だったらこんな安上がりでいい話に乗らぬ手はない。課金もいらなきゃ風俗に行く必要もない。さっそく明日からお主も女に席を譲るがいい」


「嫌ですよ、恥ずかしい」


「何故だ?どうして恥ずかしい?よいか後輩。あやつは、あのアホウはな、損得など欠片かけらも考えてはおらぬ。奴が席を譲った理由はただひとつ、単純に相手を気遣った結果じゃ。だからこそ女はあやつにれたのだ」


「別に惚れたってわけじゃないですよ。感謝の眼差まなざしっていうか、まぁ惹かれたのは事実でしょうけど」


「同じことだ。そうやってあやつは味方を増やしてきたのだ。意図して行ってるわけではないらこそ余計にたちが悪い。いつの間にか、こちらが知らぬうちに奴を中心に人が集まっている。人だけならまだいいが、終いにはあの傲慢ごうまんな龍の王までたらし込みおった。まこと厄介な男だ。本当に腹が立つ。ワシはガチマジであのアホウが嫌いじゃ。だいっ嫌いじゃ」


 甘王の興奮に合わせて、部屋の照明が激しく明滅した。大声を張り上げているわけでもないのに、詰所の窓ガラスがビリビリと振動している。


「まぁ、良い」


 甘王のトーンが沈んだ。照明が妙に暗くなり、心なしか部屋の温度が急激に下がったような気がする。


「防犯訓練だったか。つまる所、あやつが正義でワシが悪。そういう構図なのだな?」


 無言でうなずいた。口が悪く少し偏屈なところはあるが、甘王は親切で丁寧な先輩だった。だが今は甘王の側にいたくない。


「面白い。で、後輩とやら、お主はワシの敵方なのだな?」


 返事の代わりに唾を飲み込んだ。蒸し暑いはずの詰所が冷凍庫のように冷えている。エアコンの故障かもしれない。


「気の毒にのう、後輩秋津川。当日は少しばかり怖い思いをさせてしまうかもしれぬな」


 挨拶もそこそこに詰所から飛び出した。振り返って詰所を見る気にはなれなかった。巨大な人喰い熊の巣穴から逃げ出してきたとしたら、きっとこんな気分になるのだろう。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る