第44話 嫁
「なんなの、朝から」
階下から女の声がした。イ・モウトゥが階段の下に目を向け、気まずそうな顔になる。
「お母さん、起こしちゃった?」
階下に向けてイ・モウトゥが申し訳なさそうな声を出す。
「あれだけドカドカやられたら、そりゃあ起きちゃうよ」
階段を上がって、中年の女が姿を見せた。
「隆、ずぶん早いじゃない。寝てないの?」
中年女がこちらに声を掛ける。状況からして、この男の名はタカシなのだろう。
「この結界を張ったのはお前か?見たところ普通の人間のようじゃが」
「結界?なに言ってんの。またあれかい?ええっと、こども病?」
中年女がイ・モウトゥに問いかける。
「厨二病。ちゅううに、びょう。完全にこじらせてる。今回は特にひどい」
「そうなんだね。でも今度は、ぼろぼろにした手ぬぐい腕に巻いてないじゃない」
「そういうキャラじゃないんじゃない?バカ兄貴、お前は何者だ?」
「ワシか?ワシは魔王じゃ。この世界の人間共をひとり残らず滅ぼしてくれる」
イ・モウトゥの顔が嫌悪に
「だ、そうです」
女が驚きの表情でこちらを見る。
「まぁ、人間をひとり残らず?だったら、わたしとあかねも死んじゃうの?」
イ・モウトゥが凄まじい殺気を放ってきた。視線だけで岩に穴を
「いや、まぁ、全部でなくてもよい。お主らは、そうだな。特別に許してやらんでもない」
「まぁうれしい。お礼に何をしましょうか?」
中年女が笑った。笑顔になると表情が別人のように明るくなる。思ったより若いのかもしれない。
「礼か。だったらそうじゃな。あの不愉快な女どもの絵を外してくれんか?」
部屋の中央に貼られた、ひときわ大きな女の絵を指差した。カラフルでピチピチの衣装を
「本気か?あれって、兄貴の嫁だよな」
イ・モウトゥが驚いて声を上げた。
「嫁?ワシのか?冗談はよせ」
中年女も壁に貼られた女の絵を見つめ不思議そうに顔を傾げる。
「隆、でもあれって、バビブベ・ボンズちゃんでしょう?ボンズは俺の嫁って、いっつも言ってるじゃない」
「お主正気か?あれがワシの嫁じゃと?」
改めて壁に掛けてある女の絵を見た。隣のイ・モートゥと同じくらいの大きさがある。
「これは、絵じゃ」
「えぇぇっ!」
イ・モウトゥとオ・カァサンと呼ばれた女が同時に声を上げた。
「本気で言ってる?フェイクじゃなくって?」
イ・モウトゥが疑いの
「質問の多い奴らじゃのう。こんな
「それがいるんだよ」
「そんな
オ・カァサンとイ・モウトゥが同時に指を突きつけてきた。
「お前だよ!」
「ミー?」
「イエス、ユー!」
ため息をつき、肩を竦めてみせた。
「わかったわかった。イ・モウトゥよ。ワシの目の前で、あの絵を破り捨てるがいい」
「なんで自分でやらないんだよ」
「ワシに対する魔除けの札だとしたら、罠があるやもしれぬ。お主が破り捨てよ」
「じゃぁやるけど、本当にいいんだな。昔の鉄道模型みたいなことにならないよな?」
「鉄道模型?なんの話じゃ」
「わたしが間違って隆の鉄道模型捨てちゃったでしょ。そしたらあんた、泣きわめいて部屋に籠っちゃったじゃない」
オ・カァサンが困ったような顔で言う。
「そうなのか?それはこの男、いやワシにとって、命にも代えがたい品だったりしたんじゃろ?」
「命より大切な物を、燃えないゴミの上に置くかよ普通。ゴミだと思うだろう」
「で、それから五年、この狭い部屋に閉じこもっているというのか?」
オ・カァサンとイ・モウトゥが同時に頷く。
「情けない男じゃのう」
「お前だよ!」
ふたり同時に指を突きつけてくる。この辺のタイミングは、何千回も練習したようにピッタリと合っていた。
「ともかく心配するな。破こうが尻を拭こうがヤギに喰わせようが一向に構わぬ。イ・モウトゥよ。やってしまえ!」
バビブベ・ボンズを指差し、高らかに宣言した。
「アイドル、
「いいんだな。遠慮なんかしねぇぞ」
イ・モウトゥがたわわな胸を揺らしながら部屋の中に踏み込んだ。絵に両手を掛けると、一気に破り取る。
「ああっ!」
「本当に破いた。ダメじゃ。今度は五年では済まぬ。今から三十じゃ。三十年は籠るぞ」
「えぇぇ、破いていいって」
「嘘じゃバカ。
顔を真っ赤にしたイ・モウトゥが、床に転がった石鹸を掴み、顔面に向かって投げつけてきた。
「甘いわ」
想定内の動きだったから、いとも簡単に飛んできた石鹸をキャッチしてみせた。
「まだまだ甘いの」
言った瞬間、視線が
「うぐっ」
顔を覆ったタオルはまだ湿っていて、イ・モウトゥと同じ石鹸の香りがした。
「
タオルをむしり取ると目の前にバビブベ・ボンズがいた。実体化したのかと思ったが、ベットの脇に置いてあったボンズの抱き枕だった。
「後ろだ、バカ兄貴!喰らえジャーマン」
背後からイ・モウトゥの両腕が伸びてきて、パンパンに膨れている胴に
自分より体格のいい男の体を持ち上げ、ブリッジしながら背後の床に叩きつけていた。腕力もさることながら、凄まじい瞬発力だった。見込んだ通り、イ・モウトゥの体は性能がいい。だがその技には切れが欠けていた。脳天を床に叩きつける直前に、イ・モウトゥは速度を落とし、ケガをしないよう手加減していた。
立ち上がったイ・モウトゥはいつの間にかタオルを体に巻いていた。軽く腰を落とし、身構えた姿を見る限り、イ・モウトゥが何らかの格闘技を身に着けているのは明らかだった。
「よしなさい。朝から」
オ・カァサンがたしなめる。強制力は無いが、妙に抗いがたい不思議な物言いだった。
「あかね、朝ごはん作ってあげる。隆も食べるでしょ?持ってきてあげる」
「ワシは食事は摂らん。だが興味がある。同行するが構わぬか?」
「えぇぇっ!」
「今度は何じゃ。いちいち騒ぎおって」
「兄貴が一緒に朝ごはんって、十年近く前の話だぞ」
「ワシなぞ食事の席に着くこと自体、数百年ぶりじゃ。十年くらいで驚くこともなかろう」
オ・カァサンとイ・モウトゥが顔を見合わせている。家族とかいうものは食卓を囲むものだと聞いていたが、そうでもないらしい。
「それじゃぁ、お母さん、ちょっと張り切って作ろうかな。数百年ぶりの朝ごはんなんだもんね」
疲れを
「今度はどんなキャラ設定かしらないけどさ」
視線を向けずに、イ・モウトゥが呟く。
「まあ、前よりはマシなんじゃない?闇の狩人、ケンタウルスなんとかよりさ」
階段を下りていくイ・モウトゥの背中を見つめながら、やはりあの体が欲しいと考えていた。
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