第45話 朝食
テーブルには兄が座る椅子が用意されていなかったが、自分が給仕をするからそこにいなさいと、母が兄を自分の椅子に座らせた。高校の制服に着替えたあかねの対面だ。
最初のうち、兄は辺りを興味深く見回していたが、母が用意した朝食があかねの前に並べられると、おなかを鳴らし、鼻を引くつかせ始めた。
「これがお主らの食事か?」
ごはんに味噌汁、ワカメの酢の物、それと焼き鮭と厚焼き玉子の朝食だった。普段、兄の部屋に持っていく朝食は、おにぎりばかりだったから、母とあかねが毎朝食べている定番の朝食が、兄には目新しく映ったのかもしれない。
「ふむ。
相手をせず、あかねは冷蔵庫から取り出した納豆を小鉢に入れ、箸で混ぜ始める。
「なんじゃ、それは。
「納豆のうまさ知らないのか?人生損してねぇか?」
「うまいわけなかろう。あきらかに腐っておるぞ、それは」
「喰ってみろって。そしたらわかるから」
「いやいや、
「放っておいてよ。人の好みにケチつけんな」
「ちょっと寄こせ」
兄の前に、母が小鉢に入れた納豆を置いた。 食べないと言ってるくせに、兄は箸で納豆をこね始めた。
「なるほど。こうして回すと、糸を引き始めるのじゃな」
「食べないならちょうだいよ。もったいないから」
子供がおもちゃを隠すように、兄が小鉢を体に引き寄せる。
「ワシがこねた物を寄こせとは不埒な奴じゃ。お主がワシに乞うてよいのは慈悲だけじゃ」
箸に絡みついた納豆を、兄が口に入れる。ぴちゃぴちゃと音を立てて、味を確かめている。
「納豆初心者はな、醤油足すんだよ」
醤油差しから醤油を垂らしてやると、兄は箸でこね回してから納豆を口にした。
「ほう。味が鮮烈になったな。これはいい」
あかねは兄に向って黙ってうなずいた。
「それで、これをここにかけるのだな?」
いつの間にか兄の前に食事が並べられていた。母の仕業だが、さりげなさ過ぎて気づかなかった。兄も同じだったらしく、何の疑問も口にせず、ちゃわんによそられたご飯に納豆を掛けている。
兄は白米と一緒に納豆を掻き込むと、長い時間をかけて咀嚼し、音を立てて飲み込んだ。
茶碗を左手に持ちながら、兄の持つ箸がおかずの上を移動する。
「タカシ、迷い箸はダメ」
鋭い口調で母が諭す。昔から箸の使い方にはうるさかった。だが迷い箸以前の問題で、兄の箸の持ち方はひどいものだった。
兄の視線があかねの持つ箸に向いた。ニ、三回修正を加えると、兄はあかねと同じように箸を使い始めた。
「なあ、兄貴。兄貴は、異世界から来た魔王なんだよな?」
「そうじゃ。それが何とした?」
「ふ~ん。でもそれって変じゃねぇ?兄貴、いや魔王様が話してるのって、まんま日本語だよな」
「日本語?それがこの言葉の名称か。日本語とはこの地域特有のものなのか?それとも世界共通の言語であるのか?」
「日本語は日本だけだよ。言いたいのはさ、なんで魔王は、流暢に日本語を喋ってるのかってことだよ。前の世界の言葉じゃなくってさ」
「シシリカ語。あの時代の共通言語じゃったが、言葉としては稚拙な出来じゃったな」
「あの時代のって、言葉が時代によって変わるのか?」
「当然じゃろう。征服者が言語の統一を行うのは占領政策の基本じゃ。力を持つ者が使う言葉を決める」
「じゃあ前の世界ではシシリカ語を使ってたんだろう?なんで日本語が話せるの?」
「どうしてじゃろうのう?ワシは二百五十を超える言語を操れるが、日本語などという言葉は知らん。だがこうして今、イ・モウトゥと話しておる。不思議じゃな」
「じゃあさ、そのシシリカ?シシリカ語で話してみてくれよ」
「それもできん。さっきからそうしようと試みておるが、口をついて出るのは日本語じゃ。不思議じゃのう」
「不思議でもなんでもないよね、それ。元々兄貴は日本語しかできないんだからさ」
「これはまだ推測の域を出ておらぬのだが」
お茶をすすりながら兄が続ける。
「この世界の人間、つまりお前の兄、タカシとかいったかの。そのタカシとやらの肉体に、ワシの意識だけがすっぽりと入り込んでしまったのではないかと考えておる。肉体はタカシのままだから、言語を司る脳の機能もタカシのものだ。タカシの脳で考えたワシの言葉は、タカシの知る唯一の言語である日本語に変換されて口から出る」
「なんか意味わかんねぇな」
言ってはみたものの、感覚としては解るような気がした。
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