第43話 脆弱

「貴様、何者じゃ。つぶてでワシに膝をつけさせるとは、なかなかやるではないか」


 女はずかずかと部屋に踏み込んでくると、いていたスリッパを手に取った。


「お母さん、まだ寝てるんだよ。なに朝からわめき散らしてんだよ、バカ兄貴」


 手にしたスリッパで、女が頭を叩いてきた。スパーンといい音が響き、衝撃で視線が下を向き、額に焼けるような痛みが広がっていく。


「ええっと、なんじゃろうな。これはその、とりあえず」


 顔を上げて女を見ると、女は手にしたスリッパを振りかぶって二撃目を見舞みまうつもりでいる。


「ちょっと待て。おまえ、いや、きみ、あなた」


 スリッパを持った女の手が停止した。スリッパを持つ手を下ろすと、女が胸倉を掴んできた。


「お母さん、四時半頃帰ってきたんだぞ。寝たばっかりじゃない。少しは気を使えよ」


 耳がわずかに隠れるほどの短い髪から水滴が垂れている。おそらくは湯あみの途中だったのだろう。


「いや、よくわからんが、おまえは誰だ?討伐軍の兵士か?」


「また脳内ファンタジーかよ。呆れる。いいよ、付き合ってやるよ。わたしはな、イ、モウトだよ、お前のな」


「イ・モウトゥ。ワシのか」


「そ。残念だけど、あんたのイ、モ、ウ、ト。思い出した?」


「ワシのイ・モウトゥ。なるほど。ワシに忠誠を誓う者のひとりか」


 イ・モウトゥが溜息ためいきをついた。


「お母さん、誰のせいで夜勤までやってるって思ってるんだよ」


「誰のせいなのだ?」


 風を切ってスリッパが打ち下ろされた。小気味よい音を立てて、頭を張られた。


「お前のせいだろ?バカ兄貴。五年も引きもりやがって」


「五年?五年もこの部屋にいるのか、ワシは」


「十八からだから五年だよね。最後に初詣はつもうで行ったのいつだか覚えてるか?」


「ワシ、神様信じてないから」


 女の手にしたスリッパが再び振り上げられる。


「待て待て。少しだけわかってきたぞ。お主、鏡を持っておるか?」


「持ってないよ。トイレにあるじゃん」


 立ち上がり、辺りを見回した。


「トイレはどこじゃ?」


 女の顔が怒りに歪む。


「自分ちのトイレ忘れたの?」


 引き戸の先の狭い廊下を見回した。突き当りにドアがある。ドアを開くと小さな便座と手洗いの上に、薄汚れた鏡が壁にかかっていた。


 鏡を覗き込むと、若い人間の男がこちらを見返している。色白で目が細く、ぶよぶよと太っていた。


「これが、ワシか?」


 額が赤いのは先程のイ・モウトゥの攻撃のせいだろう。頬をつねると、鏡の向こうの男も頬を抓る。


「ふ~む。どうやらワシは、この男に憑依ひょういしてしまったようだのぅ」


 自分の本体は暗黒の瘴気、いわば意思を持つガスの集合体のようなものだ。人間の体に憑依し乗っ取ることで人の形をとる。だが、自分の持つ莫大な負のエネルギーを制御するには、憑依する人間の体もまた屈強でなくてはならなかった。それ故に、今までは討伐に来た勇者を返り討ちにして、その頑強な肉体を手に入れて来た。だが鏡に写るこの男の姿は、屈強とはかけ離れていた。


「近くに誰もおらず、とっさに憑依してしまったのか。この脆弱ぜいじゃくな肉体に」


 視線を下げ、腹を見た。ぷっくりとふくれ上がった腹の肉のせいで、床にあるはずの爪先も見えない。


 演出の為に、わざと老人の姿を取ることが多かった。醜く老いさらばえた老人に倒される戦士たちの姿を見るのが好きだったからだ。だがその姿は、乗っ取った勇者の頑強な肉体をベースにメタモルフォーゼしたものだ。決して元から脆弱な肉体であったわけではない。


「見苦しいな、これは。早々に別の体に乗り移らねば」


 廊下の先から、イ・モウトゥがこちらを見ている。なんらかの違和感を感じているのだろう。それもそのはずで、イ・モウトゥが知るこの男の意思は乗っ取られ、その記憶も消えている。


「あやつ、なかなかにいい体をしておるな」


 イ・モウトゥの体をつぶさに観察した。この男より遥かに健康的な体だった。


「な、なんだよ。何見てんだよ」


 廊下の先に立つイ・モウトゥが不審な眼差しでこっちを見てる。


「ワシに忠誠を誓うものなら恨むまい。イ・モウトゥよ、その肉体をワシに捧げよ」


「はっ?なに言ってんだ?」


「心配するな。痛みはない。すぐに終わる」


「終わるってなんだよ、エロゲか」 


 体の力を抜き、体内に巣食う瘴気を吐き出そうと大きく口を開いた。腹の底に力を入れるが、いつものように瘴気がうまく流れ出ない。


「おっ、おえっ」


 腹の底から不快感が沸き起こり、何かがのどを焼いて逆流しそうになる。


「おかしいな。あれ?」


 イ・モウトゥの顔に明らかな侮蔑ぶべつの色が浮かぶ。


「ダメだな。もう救えねぇ」


 そう呟くとイ・モウトゥは背を向けた。

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