第106話 偶像崇拝

鳴倉の目の前でひざまずいていた矢崎が不意に走り出した。40を幾つか過ぎているとは思えないほどの瞬発力を見せて、矢崎はエレベーターに向けて走り出していた。


 矢崎の目的はエレベーターの脇にある非常用出口だ。この部屋の構造は隅から隅まで調べ上げている。敵地に乗り込むのだから当然の措置そちだが、部屋の図面を手に入れるだけで数百万もの金を使っている。そこまでして万全の態勢たいせいきずきあげたのに、せっかくおさえた矢崎を拘束こうそくもせずに、あろうことか小僧犬は矢崎から銃口をらし、背を向けて女の方へ歩み出すという愚挙ぐきょに出た。


 矢崎を絶対に逃がしてはならない。配下の者を使ってビル全体を包囲してはいるが、矢崎が仲間か警察を呼べばどうなるか知れたものではない。今回の作戦の目的は、矢崎の身柄みがらを確保し口座のパスワードをかせることだ。ここで逃げられては元も子もない。


 


 女に向かって歩く小僧犬が、手にした拳銃を背後に向けた。同時に鼓膜こまくを平手で叩かれたような衝撃が走り、鳴倉は首をすくめた。


 小僧犬が後も見ずに放った拳銃の弾丸は、逃げる矢崎の背中に着弾ちゃくだんした。逃げらるよりはマシかもしれないが、殺してしまうのも問題だ。数年かけて準備した作戦が一瞬にして水泡すいほうに帰してしまう。


「おお、当たった当たった。すごくねぇ俺」


 エレベーターホールで倒れている矢崎を見て、小僧犬がはしゃぐ。


「その銃はイタリア製のマシンピストルで、セレクターが3点バーストになっています。一度撃てば3発連射されるわけで、別にあなたの腕がいいわけではありません」


 恐る恐る振り返ると、エレベーターホールの中央にできた血だまりの中に矢崎が突っ伏つっぷしている。いずれにせよ生かしておくわけにはいかないのだが、口を割らせてから配下の者が処分する手筈てはずだった。この業界に身を置いて数年たつが、未だに鳴倉は血を見るのが怖い。


 倒れたままの矢崎の体が動いた。鳴倉はうようにして矢崎に近づいた。


「矢崎さん、矢崎さん」


 声を掛けると反応があった。身じろぎしながらも矢崎は体を反転させた。


「今医者を呼びます。がんばって下さい」


 そうは言っても救急車を呼ぶわけにはいかない。せいぜい懇意こんいにしている闇医者を呼ぶくらいだが、到着するまで矢崎が生きていられる可能性は限りなく低い。


「まったくなんてことするんだ。無駄なんだよ、意味がないんだよ」


 愚痴ぐちりながら矢崎の傷を確認する。右胸と鳩尾みぞおち辺りに着弾していて、傷は絶え間なく出血を続けていた。


「バカなんじゃないか?頭おかしいんじゃないか?」


 立ち上がり、クッションとテーブルクロスを手にして矢崎の下に戻る。こんな事態を引き起こした張本人は、強張こわばった顔で座っている女に向かって嬉しそうに話しかけている。


「いや、ほんと。卒業コンサート行ったんですよ。チケット持ってなかったけど、会場までいけば誰かからパクれるかなって。でも今顔認証かおにんしょうとかあるじゃないですか。だからダメで」


 矢崎の頭の下にクッションを置き、テーブルクロスを折りたたんで傷を圧迫した。痛みの余り、矢崎は獣じみたうなりを上げる。


「くそっ、ぶっ殺してやる。鳴倉、銃持ってこい。あのバカをハチの巣にしてやる」


「動かないで。今、医者呼びますから。じっとしてて」


「構わねぇから銃取ってこい。あのバカ道連れに死んでやる」


 アドレナリンのせいなのか、矢崎の意識ははっきりしている。


「医者を呼びます。だからパスワードを教えて下さい」


 スマホの録音スイッチを操作しながら、鳴倉は矢崎の耳元で叫んだ。


「ふざけるな。誰が教えるかよ。それより銃だ。銃持ってこい」


「パスワードが先です。教えてくれたら銃を渡します」


 拳銃を手渡したところで、この出血では引き金を引けはしない。取引としては悪くない。


「いいか鳴倉、一度しか言わねぇ。よく聞け」


 録音しているから心配ないとは思ったが、えて口にはしなかった。


「あいつは狂犬だ。狂犬っていうのはな、生きてるだけで他人に害をす。そういうやつは、もう殺すしかねぇ」


 矢崎は血塗ちまみれの手で、鳴倉の襟首えりくびを掴んだ。


「あいつには親も兄弟も、仲間もダチも関係ねぇ。誰彼構わずみついて死を撒き散らすだけだ。そんな奴を生かしておくな。いいか鳴倉、そう遠くないうちに、あいつはお前を殺しにかかる。そうなる前にお前の手であいつを殺せ。首を斬り落として確実に殺せ」


「わかりました。約束します。だからパスワードを」


「くそ痛ぇな。こんな死に様かよ、ムカつくぜ」


「ムカつくならもう行けや、おっさん。お前人間のくずだから間違いなく地獄落ちだろうけどな」


 いつの間にか背後に立っていた小僧犬が矢崎に向かって引き金を引いた。耳元で雷が落ちたような轟音ごうおんが響き、一瞬鳴倉の聴覚は完全に奪われた。


 矢崎の体が跳ね上がり、それから完璧に動きを止めた。


「なんてことを」


 鳴倉は立ち上がり、自分より30㎝近く下にある小僧犬の顔を見下ろした。


「何してるんですか。なんで殺しちゃうんですか」


「勢いだよ勢い。そういうことあるだろう?」


「ありませんよ。何年かけてきたと思ってるんですか?どれだけ金使ったか知ってますよね」


「鳴倉さぁ、仕事って時として、お金より優先されることってあるよね?」


「無いです。ありません。命懸いのちがけだったんですよ?それもこれもみんな、今日手に入るはずの金の為でしょうが」


「こいつが死ねば、これからは俺たちの天下だ。はした金なんかすぐに回収できるよ」


「数十億をはした金とはいいません。それに天下って。三日天下って言葉知ってますか?」


「知らね。なにそれ、ラーメン屋?」


「明智光秀は?」


「馬鹿にするな。それ位知ってるよ、名探偵だろう?」


「それは小五郎です。同じ明智でも光秀は実在した人。小五郎は架空の人物です」


 唇をみしめすぎて血の味が口の中に広がる。だが何をしても、もう全てが無駄だった。


「ねぇ」


 声に目を向けると、青ざめた顔をしたひよりが立っていた。


「帰ってもいい?このことは、誰にも言わないから」


 矢崎の死体を目にしながらも、ひよりは落ち着いてる。ここで離したところで警察に駆け込むことはないだろうが、この女は殺しの目撃者だ。


「ええっ?ダメだ、ダメだよ。ひよりちゃんはここにいなきゃ。俺もっとひよりちゃんの話聞きたいし」


 数十億の儲け話が消えて無くなったのにも関わらず、小僧犬は落ちぶれた元アイドルと話をしたいとのたまわっている。正気の沙汰さたではない。


「わたしのこと、あんなふうにしない?」


 足元に転がる矢崎の死体ではなく、リビングに並ぶ男どもの死体を指差し、震え声でひよりが尋ねる。


「しないしない。絶対にしないよ。俺、伝説のバスツアーに参加してたんだぜ。傷つけるわけないだろう。ねぇ、これからは俺を頼ってくれないかな。俺がひよりちゃんをプロデュースしちゃうからさ」


「助けてくれるの?ひよりのこと、守ってくれるの?」


「ああ、約束する。だからひよりちゃん、俺だけのアイドルになってよ」


 ひよりの手を取り、小僧犬は自分より背の高いひよりの目を見つめている。


「わかりました。なります。あなただけのアイドルに」


 あきれて物が言えなかった。この国で最も勢いのある犯罪組織のオーガナイザーを殺してまで手に入れたのが、売春婦に身を落とした元アイドルだけとは、冗談にしても笑えない。


「ほんと?やった。すげぇ嬉しい。やったぜ、なぁ鳴倉。最高だろ?嬉しいよな」


「おめでとうございます。末永くお幸せに」


「ありがと。ほんと、ありがとうな」


 嬉しそうに小僧犬が両手を挙げる。


「万歳!ばんざ~い」


 声を掛けようとしたが手遅れだった。鳴倉と小僧犬の目の前で、MK22から発射された338マグナム弾はひよりの頭部を粉砕ふんさいした。


「うぷっ」


 ひよりの血と脳漿のうしょうを全身に浴びながら、鳴倉と小僧犬はその場に立ち尽くした。


「両手を挙げたら、あなたとわたし、矢崎を除く全ての人間の頭を吹き飛ばせとスナイパーに指示しましたよね?」


 頭部を喪失そうしつしたひよりの遺体を見下ろしながら、小僧犬にたずねた。


「そうね、したかもね」


「間違いなくしてましたよ。それでこのザマです。わざとやってませんか?」


「だからって死ぬか普通?マジ信じられねぇ。生きてりゃ色々笑える使い方ができたのに。在り得ありえないくらい役たたずな女だな」


 鳴倉はポケットからハンカチを取り出すと、血にまみれた小僧犬に差し出した。


「ありがと」


 ハンカチで顔をこすると、小僧犬はハンカチをズボンのポケットに突っ込んだ。


「ちゃんと洗って返すよ」


「その必要はありません。それより、お父さんの形見のシャツが台無しですよ」


 鳴倉の顔を見上げながら、小僧犬が楽しそうに笑う。


「親父は浜松で女と焼き鳥屋やってる。そのうち穴から串刺して、あいつ自身を焼き鳥にしてやる」


「楽しみですね」


「ああ、俺といれば退屈はさせねぇ。他のことはともかく、それだけは保証する」


 どちらともなく、エレベーターに向かって歩き出した。


「これからどうします?」


「こいつの組織を奪う。速やかに確実にな」


「手配します」


 エレベーターに乗り込み、血塗れの手でボタンを操作した。


ちなみに」


 小僧犬に目を向けず、鳴倉は事務的に続けた。


「伝説のバスツアーは別のアイドルの話です。彼女ではありません」


「そうなの?それってどんな話だっけ?」


「自分で調べて下さい。明智光秀と三日天下の話もですよ」


 音も無くエレベーターの扉が閉まり、惨劇の部屋は鳴倉の視界から消えていった。

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