第192話 前に進む力

「勝ち目は無い」


 南条ははっきりとそういった。言われなくても、ボルオとの実力差はあかねが一番良く理解している。


「だからこれは、作戦というより賭けに近い」


 勝ち目が無いと言いつつも、あかねを見つめる南条の瞳にかげりは無い。

 続く南条の言葉に、あかねは耳を疑った。余りにも馬鹿げていて、南条の正気を疑った。


「天才とはいえ、ボルオはまだ野球を始めて日が浅い。だからこそ、可能性がある」


 南条の言い分には、それなりの説得力があった。だが根拠はない。一歩間違えればボールは荒川を飛び越えて埼玉にまで届いてしまう。


「やってみます」


 無意識のうちにそう答えていた。どこに投げても打たれるのなら、半ばやけくそになって南条の提案に乗ってみるのも悪くない。


 真新しい白球をあかねの右手に握らせると、南条は背を向けてマウンドから降りていった。


「南条さん」


 思わず呼び止めていた。もうこれ以上話すべきことなどないのに、言葉はあかねの喉からすべり出た。


「勇気って、なんだと思いますか?」


 グラウンドの中央で南条は足を止めた。


「そんなに大したものじゃない」


 振り返りもせず、南条が答えた。 


「震える足を、ほんのわずかでも前に進める力。そんなところだろう」


 そう言ってバックネットに歩き始めた南条の背中は、なぜかとても寂しそうに見えた。


「ほんの僅かでも、前に進む力」


 グローブの中の白球に目を向けながらつぶいてみたが、正直、あかねにはピンと来なかった。

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