第189話 猫の爪

「あのバカが!」


 あかねの投球に合わせて、魔法攻撃を仕掛けた。凍結魔法の応用し、一時的に体内の血流を阻害そがいして筋肉を硬直させる術だ。全盛期であれば相手を一撃で石化させるほどの威力があるが、今の甘王の力では一時的に動きを止める程度の効果しかない。


 だからこそタイミングを計り、ここ一番という瞬間に術を発動させた。完全に動きを止めることはできなかったが、それでも凡フライに押し留めた。そのまま南条が捕球していれば、イ・モウトゥの完全勝利で終わっていた。


「わざと落としおった。4千円分もの食券を払ってやった恩を忘れおって。愚か者が」


 どうしてくれようかと眩暈めまいがするほどの怒りだ。憤怒ふんぬの炎が身のうちを焼き、どす黒いオーラと化して体表から漏れ出してきている。


「小僧、わしとの契約を反故ほごにしたのだ。それ相応の覚悟はできておるのだろうな」


 赤いユニフォーム姿の南条に目を向けた。今なら視線だけでも体表に大穴を開けてやれるような気がした。


「ぬ?」


 南条の体が弓のようにしなった。次の瞬間、南条の姿は土煙に隠れ、風を切り裂く音と共に硬球が飛来し、甘王の頬をかすめて背後のコンクリ壁にめり込んだ。


 収まっていく土煙の先に、射るような視線を甘王に向ける南条がいた。


「ほう、久しく忘れておった不愉快な目を取り戻しておるな」


 光の勇者と呼ばれる以前、最強の戦士として敵味方に恐れられていた頃の南条の目つきだ。


「愚か者が。今のつぶてを外した甘さ、身を持って知るがいい」


 立ち上がり、左手に魔力を集中した。適性のない甘王の体とはいえ、人間一人葬り去る程度の術なら放てるはずだ。


「フロガ・エクリクシー」


 呟くと同時に、左の掌に熱エネルギーが蓄積を始める。燃焼系放出魔法の代表格だが、魔王である自分の放つ術は光の速さで敵を捕らえる。


「一瞬にして灰にしてくれるわ。くたばれ南条」


 ぞくりと背筋を悪寒が走り抜けた。視線の先に立つ南条からではない。敵は背後にいた。


「たかが遊びで熱くなるなよ、魔王」


 背後から首筋に剣を当てられていた。肌に触れる刃の感触から、尋常じんじょうではない剣の鋭さを感じ取った。背後にいるのは、まぎれもない剣の達人だ。


「三日飼えば犬でも恩を忘れぬというが、猫には当てまらんようだな」


「ネコっかぶりって言葉があるぜ。まぁ、おれは本物の猫だから、なんにも被っちゃいないけどな」


 ざらついた荒布でこすられたような感触が首筋を這う。肩に乗った白猫が甘王の首を舐めたのだろう。


 背後にいたはずのランスロットが甘王の肩にいる。首筋に当てられたのは、1センチにも満たない猫の爪だったが、その威圧感は聖剣のそれに匹敵する。


「お主と直接ことを構えるのは初めてではないか?剣聖ランスロットよ。罠にはまりあっけなく死んでくれたおかげで、主のつらを目にすることはなかったしな」


「罠を仕掛けねば倒せなかった。素直にそう認めろよ、魔王。怖かったんだろう、俺たちが」


 俺たちとはランスロットを含む三賢者のことだろう。


「なに、面倒くさかっただけよ。ネズミは一匹ずつ殺すより、金網に捕らえてまとめて川底に沈める。知恵ある者なら誰でもそうする。当たり前だろう?」


 笑っているのか、小さな吐息が頸動脈けいどうみゃくをくすぐる。気配こそ人間のものだが、首に取り付いているのは、子供の頭ほどの大きさしかない白猫だ。


「首を落とすか、ランスロット。やってみるがいい」


 甘王の首を落とされても魔王は死なない。魔王の本体は意思を持つ闇の瘴気しょうきだ。器を替えるように、憑りつく体を変えればいい。


「周りを見てみろ魔王」


 首を動かさず、視線だけで辺りを見た。甘王と肩に乗せた白猫以外、外野スタンドには誰もいない。


「瘴気と化したお前は俺に憑りつくしかない。あそこにいる出来の悪い弟子が、それを見逃すと思うか?」


 グラウンドで立ち尽くす南条は、鋭い視線をこちらに注いでいる。


「今のあやつに、一瞬でワシを灰にする力などあるまい。小一時間もあれば、ワシの意識はお主を完全に支配する」


「川の向うは川口だ。知ってるか?埼玉の川口」


 もちろん知っている。西川口にはディープな中国料理の店が軒を並べている。休みの日には珍しい麺料理を求めて出かけることも少なくない。


「川口は鋳物の街だ。街中いたる所に溶鉱炉がある。猫と化した貴様を骨も残らず焼き尽くすのに五分とかからない」


 良く考えている。アホ勇者は人の家に上がり込んで猫と一緒に縁側で茶を飲んでいたが、師弟二人してあれこれと策を練っていたのだろう。


「荒川は広いぞ。ワシが主の意識を支配する前に、無事川向うに辿り着けるといいな、ネコよ」


 猫が笑い、飼い主である自分もまた笑った。敵と同居する奇妙な日々に終わりが来たようだ。


「まぁそうカッカするな魔王。あれを見てみろ」


 かすかな痛みを残し、猫の爪が首筋から離れた。右肩に乗った白猫の視線の先を追うと、南条ではなくマウンドに立つあかねに行き当たった。


「あかね」


 マウンドの上から、あかねがこっちを見つめている。

 

 ボルオが魔法攻撃を受けたことなど、唯の人間に過ぎないあかねに判るはずがない。それにも係わらず、あかねの瞳は真っすぐこちらに向いている。


「ワシの正体をバラした訳ではないだろうな?」


 言葉が上ずった。信じられないことだが、心臓の鼓動が幾分早まっている。


「最初っから自分でバラしてるだろう。今更そんなこと言うかよ」


「だったら何故あかねはこっちを見ている?」


 被っている帽子を取ると、あかねは右手を高く上げ、こちらに向けて勢い良く手を振り出した。


「な、何をしておるのだ、あいつは」


 球場のカメラが甘王を捉え、スクリーン一杯に甘王の顔を映し出した。それを見たあかねが、グローブで口元を押さえて笑っている。


「おおっ?甘王あかね選手の知人でしょうか?誰でしょう、彼氏でしょうか?ちょっとだけうらやましいぞ、この野郎!」


 アナウンサーの声が球場に響き渡る。画面の中の自分の顔が赤くなっていることに気づき、思わず甘王はカメラに手を向けて顔を隠した。


「あれはおでんちゃんのお兄さんね。お日様マートの常連さんで、からあげサンサンを五個も注文してくれる素晴らしい若者よ」


 カメラが移動しバックスクリーンの大画面に、満面の笑顔を浮かべたあかねが映し出された。


「いい笑顔です。甘王あかね選手。素敵です。素敵すぎます」


 全身から力が抜け、それと同時に体を覆っていた漆黒のオーラが消えていった。


「あかねめ。楽しそうじゃな」


 拍子抜けし、芝生の上に腰を下ろした。


「あかねはまだ負けてない」


 猫の思念が頭の中に響く。


「自らの意思で戦う事を決意した者に手助けは不要だ。例え最愛の妹の為でもな」


 揶揄やゆするような声音でささやくと、猫はひらりと肩から離れた。草の上で耳の後を二、三度くと、猫は球場の外に向かって歩き出した。


「喰えない男じゃのう、ランスロット。貴様が勇者を名乗っておれば、ワシも手を焼いただろにうに」


 外野フェンスの上で、白猫は左右異なる色をした眼球を甘王に向けて動きを止めた。


「だからこそあいつなのさ。愚直で馬鹿で融通ゆうづうが利かなくて、納得がいかないことには決して妥協しない。勇者なんてのは、そういう面倒臭い奴じゃなきゃつとまらない」


 言い捨てると、猫はフェンスの上から姿を消した。


 確かに、魔法攻撃で動きを止めたボルオを倒しても、あかねは喜んだりしないのだろう。あかねが望んでいるのは形だけの勝利ではなく、全力で勝負したという結果だからだ。


 南条はそれを知っているからこそ捕球しなかったのだ。南条はあかねとボルオの闘いに他者が介入することを良しせず、そしてその考えは間違ってはいなかった。笑顔で手を振るあかねの姿がそれを証明している。


「黙ってみておれということか。不本意ではあるが、この勝負、ひとまず主に預けるとしよう」


 タラチーズを手元に引き寄せ、四~五本まとめて口の中に放り込んだ。こんなことなら缶ビールでも持ってくれば良かったと思いながら、甘王はぬるくなってしまったウーロン茶を口に含んだ。

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