第190話 マウンドにて

 兄に向かって振っていた帽子をかぶり直し、あかねはピッチャーズプレートに足を架けた。

 

「すまなかった」


 あかねに駆け寄ってきた南条が頭を下げた。

 南条はキャッチャーフライを落としたのではない。わざと取らなかったのだ。


「気にしていません」


 本当に気にしていないかと言われれば微妙だったが、今はそう答えるしかない。

 元々あかねとボルオの闘いなのだから、南条が捕球して終わりというのではまらない。


「ボルオ、なんか動きがおかしかったね」


 バッターズサークルで素振りを繰り返すボルオに目を向けた。第二投は高速スライダーだったが、ボルオが万全だったなら、球は確実に場外へ叩き出されていたはずだ。


「兄貴がなにかしたのかな?」


 キャッチャーフライを落とした南条は怒りにまかせてボールを兄に向けて投げつけた。

 陽光を反射させて目をくらませるとか、なんらかの妨害行為ぼうがいこういを兄がボルオに仕掛けた可能性はある。


「何もしていないし、何も起こらない。これから先が本当の勝負です」


 審判から渡された真新しい白球を差し出しながら、南条があかねを見つめる。


「さっきのスライダーがわたしの精一杯だった。あれがダメだと、はっきり言ってもうお手上げかも」


 打つ手が無い。

 野球に関していえば、ボルオは本物の怪物だ。たった二球で、あかねはそれを思い知らされた。一年程度のあかねの修練など、ボルオの前では児戯じぎに等しい。


「それでも投げなければいけません。彼はあかねさんの挑戦を受け、本気で戦っている。逃げずに最後までやり遂げるのが礼儀です」


 そうなのかもしれない。

 ただ負けるのが怖かった。恥の上塗うわぬりになるし、今まで努力も何ひとつ報われない。笑顔を見せてはいるが、本音を言えば今にも恐怖に押し潰されてしまいそうだ。


「南条さん、きびしいんですね。もっと優しい人だと思ってました」


 南条の視線を正面から受け止めることができず、あかねは唇を噛んでうつむいた。


「これはきみの闘いだ。わたしはただ、きみの全てを受け止めることしかできない」


 顔を上げると、真っ直ぐに見つめてくる南条と視線がからみ合った。思わず息を止め、あかねは再び俯いた。


「今のって、」


 顔が赤らんでくるのがわかった。それと同時に腹の底から笑いが込み上げてきた。


「どうしました?なにかおかしなことを言ったのだろうか?」


「いえ、ちょっと、なんかだ今の言葉って、プロポーズみたいだなって思っちゃって」


「プ、プロポーズ?」


 顔を上げると、いつも冷静なはずの南条が目を丸めていた。


「全てを受け止めるって、ちょっとすごくないですか?」


「あ、いや、それはですね。あかねさんがどんな球を投げてきても、絶対にキャッチするって意味で」


「わかってる。わかってますけど」


 我慢したが、こらえれば堪えるほど笑えてきた。


「ちょっとダメだ。おかしい」


「あかねさんにプロポーズなど絶対にしない。少なくとも未成年のうちは絶対にしない」


「結婚したら、兄貴、兄貴が南条さんのお兄さんになる・・・・・」


「ま、魔王、甘王がわたしの兄?」


 途方にくれたような顔で南条が外野スタンドにいる兄に目を向けた。本当に困惑している。


「冗談です。ごめんなさい」


 目からこぼれ出た涙をぬぐい、あかねはバッターボックスに立つボルオに目を向けた。


「南条さん、ありがとう。おかげでちょっと落ち着いた」


 南条が黙ってうなづく。


「次の一球で終わりにします。南条さん、受け止めて下さい」


 そうは言ってみたが、おそらくあかねが投げるボールは南条のミットには届かない。ボルオによって球場の先にある荒川に叩き込まれる運命だ。


「ひとつ、提案がある」


 南条が声を上げた。


「ボルオは野球を始めてまだ日が浅い。そうですね?」


 あかねは頷き、南条の次の言葉を待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る