第98話 嗚咽

  真・魔王城は畳敷きの六畳間だった。部屋の右側にベッド、窓がある左側に学習机と本棚が置いてあるだけの簡素な部屋で、ベッドと机の間の畳の上に小さなちゃぶ台が置いてあった。


 ベッドに腰を下ろした甘王の向かいに、ちゃぶ台を挟んでランスロットが座布団に座っていた。部屋の中に入ってきた南条を見上げた二人は、南条を一目みた途端、顔を背けた。


「どうした?」


 思わず声を掛けた。甘王はベッドに顔を伏せたまま、ランスロットは座布団に顔をこすりつけるようにして震えている。意識せず強力な魔法が発動してしまったのかと思い自分の身体を見回してみたが、これといった変化は見受けられなかった。


「どうしたんだ。ランスロット」


 顔を覆った前足の隙間から白猫の青い瞳が南条を垣間見かいまみたが、すぐにまた顔を伏せて震え出す。


「魔王、甘王、いったいどうしたのだ?」


 ベッドに伏せている甘王が嗚咽おえつを漏らしている。最強の魔王が嗚咽を漏らす様など、想像すらできなかった。


「兄貴、お茶淹れてきたぞ」


 背後からあかねの声がした。南条は振り返り、お盆にお茶と茶菓子を乗せたあかねと目を合わせた。


「南、条、さん?」


 南条を見たあかねの目が丸くなる。次の瞬間、あかねは南条に背を向け、昇ってきた階段を慌てた様子で降りていく。


「あかねさん、どうしたのですか?」


 階段を数段降りると、階下の廊下で腹を抱えてうずくまっているあかねの姿が見えた。


「毒か」


 鼻をひくつかせたが、周囲に異臭は無い。あかねが持ってきた盆の上にある緑茶の香りがするだけだ。


「大丈夫ですか、あかねさん」


 南条の声掛けに顔を上げたあかねが、南条を見て、あらがうように顔を左右に振るあかねの両目は涙に濡れていた。


「いや、こないで。こっちこないで」


 顔を背けたあかねが、苦しそうに体をよじり、右手でバシバシと廊下を叩き始めた。


「死ぬ。ダメ。死んじゃう」


「あかねさん?」


 あかねの身体がのけぞり、顔が真っ直ぐに天井へ向いた。


「ウヒャッハッハ」


 あかねの姿を見た南条はその場に立ち尽くした。あかねは南条を指差し、声を限りに爆笑していた。


「兄貴、兄貴それひどすぎ。って、なん、南条さん、なんで普通にそんなの着てられるの?」


 玄関に掛けてある姿見の前に立ち、自分の姿を見た。甘王に渡されたTシャツは、長身の南条にピッタリとフィットしていた。甘王が着るには大きすぎるTシャツだとは思ったが、清潔で素材も肌に馴染なじんだのでそのまま身に着けた。


「なんだ、この絵は」


 Tシャツには逆さまに横たわる亜人の少女が描かれていた。薄い布切れで胸と下半身を隠したきつね耳の少女が、お尻を突き出したまま立っている絵だった。短パンとTシャツは一組になっているらしく、両方を身に着けると、きつね耳の少女が腕を回して南条の身体に抱き着いているように見える仕組みになっている。少女のおしりの部分には生地がなく、みごとに割れた南条の大胸筋だいきょうきんが尻の割れ目に見える。少女の絵の脇には、ピンクの文字で「おしりペチペチしてくだせぇ」とある。体を捩じってTシャツの後を鏡に写して見ると、背中に廻された両手両足が南条にしがみついているように描かれており、中央にはやはりピンクの文字で「バビブベ・ボンズはおれの嫁」と印刷されていた。


「ひ、ひどいな兄貴。こんなTシャツ、普通絶対、人に貸さねぇぞ」


「これがそんなに可笑おかしいのか?」


 真顔で答えた南条を見て、あかねの口が酸欠さんけつにでもなったようにパクパクと動く。そのままあかねは廊下にひっくり返り、腹を抱えて笑い出した。


「敵の攻撃でないのなら、ひとまずは安心だな」


 あかねをその場に残し、南条は二階の真・魔王城へ駆け込んだ。


 笑いの発作を押しとどめた甘王とランスロットは、不意に駆け込んできた南条を見て、再び爆笑し始めた。


「バカ勇者が。いきなり来るな。殺す気か!」


「うにゃにゃにゃ、にゃーご、うにゃにゃっ!」


 つて敵同士だった魔王と猫が、ふたつそろって腹を抱えて笑い転げている。


「これがそんなに可笑しいのか?二人ともどうかしている」


 呆れ果てて南条はちゃぶ台の前に胡坐あぐらをかいた。笑い転げている甘王とランスロットを後目しりめに、南条は魔王の部屋を観察しようと四方に目を向けた。魔王の部屋は、これといった特徴もないシンプルな六畳間だった。机とベッドと本棚だけの部屋は幾分いくぶん殺風景だったが、人ひとりが生活するには快適そうだった。この世界の機械には詳しくないが、それでも三つのモニターを接続したPCが高スペックなものであるのは見て取れた。魔王が未だ人類殲滅せんめつの機会を狙っているとしたなら、インターネットがもたらすこの世界の情報は貴重なものになるはずだ


「やれやれ。危うく自分の策で死ぬところだったわ」


 笑いの発作ほっさを抑え込んだ甘王が南条を見る。落ち着きを取り戻した白猫も、ちゃぶ台を前にしてお座りをした。


 ふすまを開けて部屋に入ってきたあかねが、かしこまってちゃぶ台に緑茶を置いていく。笑いの発作を必死に抑え込んでいるのか、あかねは終始無言のままだ。


 あかねが出ていくと、部屋の中は重苦しい沈黙に覆われた。それもそのはずで、魔王と連合軍の間で交渉が行われたことは未だかつて一度たりともない。こうして同じテーブルに両陣営が席を並べるのは、有史以来初めてのことだった。


「ぺちぺちしてくだせぇ」


 不意に南条は呟き、胸のボンズの尻を平手で叩いて見せた。


 甘王と白猫の顔が赤黒く変色し、ふたつは再び腹を抱えて笑いだした。


「勝手にするといい。馬鹿どもが」


 吐き捨てるように呟くと、南条は両手で湯呑を持ち、良い香りのする緑茶に口をつけた。



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