第167話 光に満ちた世界

 隣国まで航空機を使い、そこから列車を使って国境を越えた。


 列車の中で国境警備隊による入国審査が行われたが、リディアが所持しょじする偽造ぎぞうパスポートで難なく入国できた。


 呆気あっけなさ過ぎてかえって拍子抜ひょうしぬけしてしまった。


 窓の外は夜で、深い森林だけが闇の中にどこまでも続いている。明日の朝になれば、陽光が眩しいほどの緑を照らし出してくれるはずだ。


 ステアーからのハガキは、リディアの怪我が全快する直前に届けられた。珍しいことに小僧犬がリディアの病室に現れ、いかにも観光客用の写真が印刷されたハガキを手渡してくれた。


 どうしてステアーを殺さなかったのかとたずねると、いつかまた役に立って貰うためだと言われた。裏切られるかもしれないと指摘すると、それくらいの刺激が無いと人生退屈だろうと笑われた。


 迷っているリディアの背中を押すように、小僧犬からステアー宛に荷物を届けてほしいと頼まれた。長方形の小さな箱で、中身は日本の伝統的な菓子だと言われた。いつだったかステアーにこの菓子の話をしたとき、ステアーがそんな菓子があるはずないと言いつのったのだという。必ず喰わせてやると約束したが、結局果たせなかったらしい。


 あまりに長い旅だったから、リディアは小僧犬から渡された箱を開けてみることにした。ここまで何もなかったのだから、仕掛け爆弾や毒物が仕込まれている可能性もないはずだ。


 箱の中には、クリーム色をした小粒な菓子が並んでいた。ひとつ手に取ってみると、先端にくちばしのような突起と、目をした黒い焼き目がついていた。小さな鳥が上を見ているような形状をしているその菓子を、ふたつに割って口の中に入れてみる。淡い甘さが舌の上を滑って溶け、疲れた体に少しだけ力が戻ったような気がした。  


 ステアーのハガキには、ただ一言、ホーム!とだけ書かれていた。写真にはパルケットの白い砂浜と青い海が写し出されていたが、長い距離を経て届いたハガキにはしわが寄っていて、お世辞にも美しい景色とは言えなかった。  


 車窓にもたれてうたた寝していたら、強烈な日差しを受けて目を覚ました。窓の外には初夏の陽光が溢れ、目に痛いほど白いパルケットの砂浜がどこまでも続いていた。海は青く、視界の果てまで広がっている。


 陽の光が照らし出す世界は、この世のどこよりも美しかった。それもそのはずで、リディアが生を受けたその日、リディアを照らし出していたはずの陽の光なのだ。この世界から、リディアのすべてが始まった。


 パルケットの駅に着くと、ホームの端に立って大きく息を吸い込んだ。肺が海風を吸い込み、喉の奥が少しだけ痛かった。連絡する方法などないから、誰もリディアを迎えには来ない。それでいい。十数年ぶりの故郷の大地なのだ。自分の足でどこにだって歩いて行ける。


 強い日差しを受けながら、リディアは大きな川のある入江に向かって歩き始めた。空は青く、風に吹かれた雲が流れるように飛んでいく。深く大きな森は、鳥の声と共に優しい香りを届けてくれる。


 この川のどこかにステアーはいるのだろうか?もっと上流の川沿いの丘陵地帯きゅうりょうちたいにある小さな村には、まだ誰か人が住んでいるのだろうか?そしてその村の中にある小さな教会の墓地には、兄の墓があるのだろうか?


 あせることはない。リディアは自分にそう言い聞かせた。自分の足で、ひとつずつ確かめていけばいい。またこの場所に帰ってくることができたのだから。 自分は生きていて、この世界は光に満ちているのだから。

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