第186話 セットアップ

 運動靴の靴紐を結び直し、束ねた髪を野球帽の中にしまい込んだ。立ち上がり、グローブを胸に抱いて深呼吸をする。


「あかねさん、そろそろ時間だ」


 控室の外から南条の声がした。ドアを開けると、赤羽レッドリバベッドのユニフォームを着た南条が立っていた。キャッチャー用のプロテクターと膝と脛を守るレガースを身に着けた南条の姿に違和感はない。まるで何年も前からキャッチャーをやっているような風格があるが、南条が野球を知ったのは半年ほど前のことだ。


「待たせてすみません。ちょっと色々と考え事しちゃって」


 緊張していたが、無理に笑ってみせた。南条はあかねの緊張を見抜いてしまうだろうけど、それでも虚勢を張ってみたかった。


「赤羽駅の近くに、千円で食べ放題のホルモン屋がある」


 微笑みながら南条が話し出した。あかねには何の話か分からない。


「新鮮なホルモンを、ロースターで焼いて食べるんです。45分しかないから、席に着いたらすぐに注文して、何も言わずただひたすら食べまくる。そんなお店です」


「はぁ」


「11時半から開店なんで、これが終わったらその店に行く予定なんです」


「そう、なんですか」


 壁の時計に目を向けると、午前9時45分を指していた。試合開始は10時からで、あかねが出る始球式は9時50分からだ。11時半開店というのなら、時間的には余裕がある。


「お兄さんに教わった店なんですが、なかなか行く機会がなくって。いい機会だから今日行こうかと思ってます。だから」


 一緒に行こうという誘いなのだろうか?確かにこの半年、投球のトレーニングに南条を付き合わせていた。兄の運動能力では、あかねの球を捕球することは難しかった。捕球に失敗する度に青あざを作ることに耐えかねた兄が、社員食堂の食券4千円分で南条を捕手として雇ってくれた。


「だからさっさと終わらせてしまいましょう」


「え?それだけですか?」


「それだけです。肉は高いですからね。今日は死ぬほど食べます」


 思わず笑ってしまった。あかねのとっては一年前の雪辱せつじょく戦になるのだが、南条からすれば、昼飯前の軽い運動にしか過ぎない。気負っているのは自分ひとりだと気づかされてしまった。


「そうですね。さっさと終わりにして帰りましょう」


 始まってしまえば、結着が着くまで5分とかからないはずだ。だがその5分の為に、一年もの歳月を費やした。


 あかねはグラウンドへと続く長い廊下をゆっくりと歩き出した。すぐ後を歩く南条は何も言わない。それでいいんだと思った。これは誰でもない、あかね自身の闘いなのだから。



「思ったより観客が多いな」


 外野スタンドの芝生エリアに座り、甘王は球場を見渡した。甘王のいる外野は閑散としているが、座席のある内野スタンドは8割方埋まっている。

 横断幕から判断して、右の内野スタンドが北区、左にいるのが荒川区の応援団らしい。


「たかがだ玉遊びの為に、まったくもって酔狂すいきょうな連中よ」


 来る途中、コンビニで買って来たチーズ入りタラの燻製くんせいの袋を開くと、隣で丸まっていた白猫が目を開いた。


「人の食い物じゃ。猫の貴様には塩分が強すぎる。控えよ」


 針のように細いランスロットの瞳孔が射るように甘王を見つめてくる。食い意地の張った性悪猫だが、元は三賢者と称えられた剣豪だ。その眼力にはそこそこの威厳いげんが感じられる。


「そんな目をしても無駄じゃ。コロリと死んでくれればいいが、体調でも崩された日には医者に見せねばならん。人と違い、主らには健康保険が使えぬからの」


 怪我や急性の病気なら回復魔法で瞬時に治癒させることもできるが、習慣的に体調を崩されてしまうとどうにもならない。それに、本来敵であるランスロットに治癒魔法を掛けてやるいわれもない。


 左の内野スタンドから歓声が沸き上がった。目を向けると、ベンチからあかねと南条が現れ、北区の応援団に頭を下げている。


 あかねと南条は二手に分かれ、互いのポジションに陣取った。あかねはピッチャーマウンドの上、南条はキャッチャーボックスの中央で腰を落とす。


 マウンドに立つあかねが投球練習を始める。左足を腰の辺りまで引き上げ、安定した態勢から大きく踏み込みボールを投げた。


「ほう」

 

 半べそをきながら頼まれたので、仕方なく半年ほどキャッチャー役を務めていたが、その頃とは比べ物にならないほどに投球フォームが安定している。


 新品の白球は一直線に南条の構えるミットの中に吸い込まれていく。敵味方なく、観客席からがどよめきが上がった。


「なるほど、上達しておるわ」


 スコアボード脇の電光掲示板が117を表示する。117キロの速球を投げたということだろう。


「強化魔法でも施したのか?」


 隣で首の後を掻いている白猫に問いかけた。

 前回の始球式の時の球速は100に満たなかったはずだ。あかねの身体能力が優れていることは知っているが、僅か1年でここまで上達するとは、にわかには信じがたい。


「してないにゃ」


 猫の声が脳内に響いた。最初はちゃんとした人の声で聞こえていたが、近頃はアニメの影響で思念による通話が猫キャラ調で再生されてしまう。


「いんちき、ダメダメにゃ。あかね本気でファイト」


 あかねが本気で取り組んでいることに茶々を入れるわけにはいかないということだろう。実力以上の力が身に宿れば、アスリートであるあかねはすぐに気づくはずだ。


「あかね、おっぱいかいでぇ~。まだまだ発育中~」


 スケベ猫の要らぬ思念まで読み取ってしまった。能天気な騎士殿は、転生して猫に生まれ変わったことを楽しんでいる。


「まぁ、これならそうそう容易におくれはとらんだろう」


 野球などという人間同士のれ事などに興味はないが、配下の者が衆愚しゅうぐの前で恥をさらされたとあっては黙ってもいられない。場合によっては手助けをしようとここまで来たが、あんがい簡単に蹴りがつくかもしれない。


 10球ほどウォームアップをすると、あかねはマウンドの上から一塁側のベンチへと視線を向け、動きを止めた。


「一年越しの対決だ。さぞや楽しかろうな、イ・モウトゥよ」


 共に暮らす時間が長くなるにつれ、あかねと名前で呼ぶことが多くなってはいるが、元々は配下のイ・モウトゥだ。


 三塁側のベンチから一人の男が現れた。磨き上げられた花こう岩を隙間なく組み合わせて作り上げたような肉体の上に、まだ幼さの残る小ぶりな顔がついた大男だった。短く切り揃えた髪は燃えるような赤で、両の眼は虎のような金色だ。


「ウゴォア~!」


 ベンチから出た途端とたん、大男が咆哮ほうこうを上げた。


「ニシニッポリ~ィ!」


 男が叫ぶと三塁側スタンドの荒川区民がボルオ、ボルオと唱和し足を踏み鳴らす。どうやらこれは男が入場する際のセレモニーらしい。


「スキヤキ、ヤキトリ、チャワンムシ~!」 


「なんじゃあれは」


 ベンチから出た男は振り返り、自軍のスタンドに向けて軽やかに手を振った。三塁側スタンドの中から拍手と歓声が沸き上がり、昼でも判るほどのフラッシュライトがまたたいた。甲子園で活躍したわけでもない唯の高校生に、ここまで注目が集まるのは異例なことだ。


「ただのアホウにしか見えないがのう」


 野球に限らず、甘王がスポーツ中継を見ることはほとんどない。人間の身体能力には限界がある。強化魔法を使って底上げでもしないかぎり、だだの人間が甘王の脅威となることはないからだ。


「さっさと終わらせてハツでも喰いにいくとしよう」


 草の上に横になり、青い空に流れる雲を眺めた。西から春の風が流れこんで、草の香りが鼻孔をくすぐっていく。


 いい加減、この世界を滅ぼして人間どもを根絶ねだやしにしなければならないのだが、こんな春の日に寝ころんで空を見上げていると、それすらもなんだかバカバカしくなる。この世界の人間どもを見ていると、呆れるほどに愚かだ。放っておいても早晩人類は自滅する。魔王たる自分が手間をかけて楽に死なせてやらねばならない道理どうりもない。

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