第36話  嫉妬

 西新宿の飲み屋街で、チャオは高松と遭遇そうぐうした。


 元々この辺りに高松がいることは知っていた。中学の同窓会があるとかで、西新宿の居酒屋に行くとSNSで連絡が入っていた。あえて返事はせず放っておいたのは、チャオが怒っていると匂わせるためだった。


 チャオは柿沼の体に寄り添い、人込みの中をゆっくりと歩いていた。ときどき耳元に囁きかける柿沼の言葉に嬌声きょうせいを上げ、そのたびに柿沼の胸に顔を埋める。通りの反対方向から歩いてきた一団の中に高松の姿を認めると、ひときわ大きな笑い声をあげ、高松の気を引いた。


 狙い通り、チャオに気づいた高松はその場で足を止めた。


 何も気づかない風を装い、高松の脇を通り抜けていく。柿沼と高松の体格差を比べると、若干柿沼が有利な気がした。


 高松が追って来なければそれでいい。目にした光景は気のせいだと割り切り、中学の同級生とやらと一緒に二次会でも三次会にでも行けばいい。だがチャオのことが気になって、決して楽しめはしないだろう。そんな高松の姿を想像するだけでも少しは笑える。


 予想通り、高松は追いかけて来た。同窓生にどんな言い訳をしたのかは知らないが、ひとりでチャオと柿沼を追ってきた。


「チャオ」


 路地に入ったところで、高松が声を掛けて来た。声を掛けやすいように、わざと人通りのない路地裏に入ったのだが、人通りが無いのは、高松にとっても都合が良かったのかもしれない。


「キャッ」


 驚いたように声をあげ、柿沼の背後にかくれる。


「チャオ、誰?その人。どうしてこんなところにいるの?」


 思ったより落ち着いた声だった。一流大学の医大生である高松は、プライドだけは誰よりも高い。


「知り合い?」


 柿沼が小声でたずねてきた。


「さっきの」


 それだけで柿沼には伝わる。ディナーの間、チャオはずっと浮かぬ顔をしていた。不審に思った柿沼に事情を尋ねられたチャオは、知人からストーカー行為を受けていると説明していた。


「そうか。後をつけてきたのか。本物だな」


 柿沼はIT企業の社長だった。ミカが社名を知っていたから、そこそこの会社なのかもしれない。


「きみ、どういうつもりなんだ?嫌がる女性をつけまわすなんて」


 チャオをかばいながら柿沼はスーツの内ポケットに手を入れる。いざとなったらスマホで警察を呼ぶつもりなのだろう。つまらない男だった。


「チャオ、その人誰?どういう関係?親戚しんせき?」


 親戚ときたか。吹き出しそうになるのを堪えて高松を見た。高級スーツを着こなした男と、完璧にメイクをほどした女が二人並んで歩いているのを見て、どうしたら親戚のおじさんという発想が出てくるのだろう。


「やめないか、きみ。身の程を知るっていうのは大切だぞ」


「うるせえな、おっさん。おれはチャオと話してるんだよ」


 ほうら来た。小心者のくせにプライドだけは人一倍の高松はすぐに激高げっこうする。以前にも些細ささいなことで飲み屋の店員に怒鳴り散らしたことがあった。情けない男だと思いながら、そのときチャオは高松を男らしいと持ち上げてやった。


「ダメだな。警察を呼ぼう」


 柿沼がスマホを取り出し、番号入力を始めた。緊急通報なら番号の入力など必要ないということをこの男は知らないらしい。だが、警官を呼ばれては面白みに欠ける。


 チャオは柿沼の手からスマホをはじき飛ばした。コンクリートの壁に激突した柿沼のスマホはバラバラに砕け散った。


「何をする」


 高松の仕業だと勘違かんちがいした柿沼が叫ぶ。チャオが繰り出した平手は常人の眼には捉えられない。


「チャオ、おれと帰ろう」


 柿沼の非難を無視した高松がチャオの腕を引く。大袈裟おおげさによろけて、チャオは高松の腕の中に飛び込んだ。


「淳一、助けて」


 高松だけに聞こえる声で囁いた。実をいうと高松の名前を正確には覚えていなかったが、間違っていたら後で適当に言い訳をすればいい。


「チィ」


 柿沼がチャオをさらに略して呼んだ。自分の方が親しいというアピールに違いない。


「助けて」


 双方に聞こえるように叫んだ。これが闘いの始まりを告げるゴングになった。


 先に手を出したのは柿沼だった。学生時代はボクシングをやっていたと聞いたことがある。

 柿沼の右ストレートが高松のあごを打ち抜いた。不意を突かれた高松は、路地の水溜まりに膝をついた。


 まだ倒れるんじゃねぇよ、間抜け。毒づきたいのをこらえて高松の脇に座り込むと、チャオはバッグから取り出したナイフを高松の右手に握らせた。


 高松の部屋のパソコンから注文した狩猟用のナイフだった。鞘付さやつきだったが、鞘は高松の部屋に残してきた。


「淳一、お願い」


 不意の一撃を喰らって戦意喪失しかけていた高松は、チャオの言葉で奮起ふんきした。何を手渡されたかも理解せずに、高松は手にしたナイフを柿沼の左太ももに突き立てた。


 呻きを上げて柿沼が尻餅を付く。膝をつく高松としゃがみこんだチャオ、尻餅をついた柿沼。薄汚い路地裏で、三人の視線が絡み合った。


 無言のまま柿沼は自分の腿に突き刺さったナイフを眺めている。絶え間なくピュッピュと出血しているところを見ると、傷は動脈に達している。歓喜で唇がめくり上がっていくのを、チャオは止められなかった。死のカウントダウンが始まっている。一代で財を成した若きIT社長は、新宿の汚い路地裏で命を落とすのだ。


 呆然とチャオの顔を見ている高松と目が合った。気の毒な医大生は事態が把握はあくできずに怯えていた。お前が止血をすれば、この男は助かるかもしれないと思ったが、そんなことは口にしなかった。都心の高層マンションにひとりで住んでいるのだから、親はきっと金持ちだろう。傷害致死とはいえ、いい弁護士を雇えば執行猶予しっこうゆうよくらいは勝ち取れるかもしれない。

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