第41話 隣人

 アパートに帰りついたのは午前0時を回っていた。


 到着した救急隊が、怪我人のももにナイフが突き立っているのを見て、警察に通報した。その結果、その場にいた全員が足止めを喰った。ナイフを刺した高松という大学生は緊急逮捕され、刺された柿沼という男は病院に搬送された。残った南条は目撃者として警察官から事情聴取を受けた。路地裏で争う声がしたからのぞいたら、腿にナイフを突き立てられた男がいたので応急処置をほどこしたのだと話した。現場から逃げた女がいたことも話したが、女が見せた常人離れした動きのことは黙っていた。




 かっての世界では当たり前だった魔法や特殊能力は、この世界ではマンガやアニメの中でしか登場しない空想の産物だと思われている。習得した魔法がこの世界では何ひとつ発動しないのだから、南条もその事実を受け入れるしかなかった。魔法や特殊能力について、この世界で口にする際には慎重を期す必要があった。




 ドアの鍵を開けると、隣室から松本伊代子が顔をのぞかせた。口うるさい隣人だったが、息子の慎太と心を通わせるうちに、南条に向ける表情は和らいでいった。もともと心根の優しい女らしく、一度親しくなると、この世界に不慣れな南条の世話をあれこれと焼いてくれた。


随分ずいぶんと遅かったね」


 スエットの上下にサンダル履きで、伊代子は廊下に出て来た。


「ええ、友人になった者たちと酒を飲んできました」


 伊代子の顔が曇る。伊代子は何度となく、酒に酔った南条民人といさかいを起こしていたらしい。光の勇者である自分が乗り移る以前の南条民人との問題だったが、伊代子にはその違いは判らない。


「ほどほどで切り上げましたから大丈夫です。ご迷惑はかけません」


「そうなのかい?ならいいんだけど。ほんと、あんた変わったよね。別人みたいだ」


 あなたも変わりましたよと言いたかったが、それはこらえた。最初に見たぼさぼさの髪に疲れた表情をした伊代子と、今目の前にいる伊代子は別人のようだった。夫の仕事が決まり収入が安定したことで、心にゆとりができたのだろう。


「あの娘からさ、預かってるものがあるんだよ」


 そう言うと伊代子は、リボンでラッピングされた紙袋を取り出し、南条に手渡した。メモ用紙に几帳面な小さな文字で、おやつにどうそ、明奈。と書いてある。


「なんだろう?」


 紙袋を振ると、ガサガサと音がした。


「クッキー焼いたんだってさ。部屋の前にいたから、うちで待ちなって上げてやったんだけどね。あんた遅いから、8時過ぎに帰したよ」


「そうか。それは悪いことをしたな」


「ほんとだよ、あんな可愛い子を待たせるなんてさ」


 紙袋を開けてみると、香ばしい匂いの菓子が入っていた。ひとつまんで口に入れてみる。


「甘いな」


 伊代子が吹き出して笑う。


「せっかく作ってきてそれが感想じゃ気の毒だ」


 無言のまま、紙袋を伊代子に差し出す。摘まんだ菓子を伊代子が口に放り込む。


「ホントだ、甘すぎる。ダメだねこりゃ。今度作り方を教えてやらなきゃね」


 紙袋の口を丸め、カバンの中に入れた。携行食としては理想的だった。


「砂糖は貴重だった。一袋あれば、四頭立ての馬車が買える」


「いつの時代の話だよ。あんた時々、馬鹿なこと言うクセがあるね」


 自分のいた世界の話をしたところで、伊代子は信じてくれないだろう。おそらく明奈以外は、誰一人として南条の話を信じてはいない。


「あの子にさ、ちょっと聞いてみたんだよ」


「何を?」


「いやさ、あんたとの関係をさ」


「関係?友人だが」


「あんたにとってはそうだろうよ。だけどあの子には違うかもしれないだろ?」


 明奈と自分の関係などどうでもいいだろうと思うが、この世界ではそうではないのかもしれない。奈緒も、南条と明奈がふたりきりになることを嫌っていた。


「お兄さんみたいだって言ってたよ」


「お兄さん、兄ということか」


「残念だった?」


「いや。そんなことは無い」


 明奈を一言で語るなら、無垢という言葉が正しいような気がする。物が多ければ堕落だらくし、少なければすさむのが人間だった。これほど物があふれる世界に生きていながら、明奈の純真さは奇跡に近いと南条は思う。


「あの子はひとりっ子なんだってさ。うちの慎太と同じだね。タクシーの運転手してる親父さんと二人暮らしだっていうから、一日のほとんどをひとりで過ごしてるらしい。だからあんたのことはなんだか、兄貴みたいに思えるんだってさ」


「実感がわかないな。わたしは彼女に世話になるばかりで、兄らしいことなどしたことがない」


「野暮なことは言わないけれど、あの子を泣かせたりしたら、あたしはマジであんたを許さないよ」


「同じようなことを言う知り合いがふたりいる。あなたと手を組まれたら、とてもじゃないが太刀打たちうちできない」


 奈緒と真庭の顔を思い浮かべて、南条は笑った。なんだよそれと言って、伊代子も南条の肩を叩き、つられて笑い出す。


「あなたは幸せそうだ。うらやましい」


 南条の言葉に、伊代子は目を丸くし、再び笑い出す。


「あたしが幸せ?冗談じゃないよ。いい年してこんなところに住んでさ、三人で暮らしてくのがやっとなんだよ」


「わたしの友人たちは、遠い世界の、もう会う事のない友人たちは皆、故郷の荒れ地に帰って、妻や子供たちと共に暮らすのを夢見ていました。そんな生活の何が楽しいんだと、わたしは尋ねたことがある。貧しく、つらい日々が続くだけだろうと。そうしたら彼らは、わたしにこう言った」


「女房と子供をつくれ。ってかい?」


「そう。その通り。家庭を持って、それを守り育てていく。それが全てなんだ。そう言われました」


「あんたはどう思った?」


 南条は首をかしげた。うまく言葉を選ぶことができない。


「わたしにはできないと。だけど今と同じように、すごくうらやましかった」


「なんだか不思議な気分だよ。あんたみたいなやつ、人間のクズだと思ってた。それがこんな夜中に世間話だなんてね」


「わたしは友人に恵まれている。それこそがわたしのたったひとつの取り柄です」


「わたしを友人だっていってくれるのかい?このおばちゃんを?まったく、不思議だね、あんたは」


 ひとしきり笑ったあと、伊代子はおやすみと告げて部屋へ戻っていった。


 南条は穴の開いたカバンから紙袋を取り出し、クッキーを一枚、口にした。


 やはり甘すぎる。南条はそう思った。

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