第38話  止血

 血の匂いがした。店を出て駅へ向かう途中の路地からだった。


 三日間の講習が終了し、講習中に知り合った者たちと酒を飲みに出た。金が無いと断ったが、おごってやると言われ、一杯だけならと付き合った。


 結局居酒屋に来た7人全員から一杯ずつ奢られたせいで、ジョッキ7杯分のビールを腹に納めた。転生前はいくら飲んでも酔わない体質だったのに、店を出るときは足がふらついていた。


 新宿駅に向かう途中、路地から漂う血の匂いに気がついた。


 路地にいたのは、腿をナイフで刺された大柄な男と、幼さの残る若い男、それに小柄な若い女だった。


 南条は一目で状況を把握はあくした。女を巡るいさかいで、若い男が大柄な男の腿をナイフで刺したらしい。鼓動に合わせて真紅の血が噴き出しているところからすると、傷は動脈に達しているはずだ。放っておけば1分ほどで意識が無くなり死に至る。


 刺された男がナイフに手を伸ばした。自分の腿に生えたナイフを取り除こうとしている。ナイフを抜けば出血は増し、助かる確率はさらに低くなる。


「触るな。少しだけ腿を上げろ」


 ズボンのベルトを外し、男の腿の付根に巻き付け、男がうなりを上げるほどきつく締め上げた。つい先ほど講習で習った、止血帯法しけつたいほうによる止血だった。


「名前は?」


 足のナイフから目を離さない男に声を掛ける。返事がないので頬を叩くと、男はようやく南条に顔を向けた。


「名前を言え。自分の名前だ」


「カキヌマ、マサツグ」


「カキヌマ、マサツグ。今何時だ?」


 柿沼と答えた男が腕の時計を見る。


「8時、25分」


「8時25分。この時間を覚えるんだ。救急隊が来たら、止血した時間を伝えろ。8時25分だ。いいな?」


 柿沼が力なく頷く。再びナイフを見ようとした柿沼の顔を、無理やり上に向ける。


「傷口は見るな。救急隊が来るまで上を向いてるんだ。いいか。傷は絶対に見るな」


 戦場で負傷した兵が、自分の傷口を見た瞬間にショック症状を起こして死んでいくのを、南条は何度も見ている。


 柿沼の前で膝をついている若い男に目を向けると、男は我に返ったように立ち上がり、路地の先に向けて走り出した。


「止まれ!」


 腹の底から声を出した。若い男の動きが停止する。


「この男は生きている。今逃げれば、一生逃げ続けることになる。それでいいのか?」


 振り返った若い男の全身がわなないている。


「救急車だ。呼べ」


 南条の言葉に、若い男ははじかれたようにスマホを取り出し、救急隊に連絡を取った。場所を説明するのに手間取っていたが、近くに見えるハンバーガーショップの名称を伝えると、話は進んだようだ。


 戦場での経験と今日講習で学んだ知識が役に立った。南条はまだ日本語の読み書きに不安があったが、救急救命の教本は写真付きだったので見て理解した。


「おれ、どうしよう。すみません」


 若い男は柿沼に謝り続けていた。


「もういい。間違って自分で刺したっていうさ」


 根負けしたように、柿沼が苦笑しながら若い男に答えた。若い男の顔に安堵あんどが広がる。


「ちょっと待って。ねぇ、ほんと。ちょっと待ってよ」


 女が立ち上がる。半笑いだが、その目は怒りでつり上がっている。


「自分を刺したやつを許すって、どこの聖人?」


 女がヒールを傷ついた柿沼の腿に突き立てた。柿沼の口から凄まじい叫びがほとばしる。


「てめぇもてめぇだ。タカマツ」


 女の平手が高松と呼ばれた若い男の頬を張る。


「許してもらって喜んでるんじゃねぇよタコ。女取られてるんだぞ。サクっと殺せよ、男だろ?」


 呆気あっけに取られた柿沼と高松をにらみながら、女は路上にツバを吐くと、白く小さな顔を南条に向けた。


「お前は何なんだ?いきなり出てきて」


 女の表情が怒りから真顔に変わった。


「8時25分、この時間を覚えろ~。今逃げると、一生逃げるのよボク。って、何カッコつけてんだよ。お前はウルトラ警備隊か?」


 女のヒールがコツコツと路面を叩く。本当にイラついているのだろう。


「ねぇ、救急車って呼んでからどれくらいで着くの?」


 女がたずねると、柿沼は首をひねり、高松は意味もなくスマホの画面を見た。


「都内なら約7分だ」


 南条が答えると、女は鼻で笑った。


「ウルチョラ警備隊は何でも知ってるのね」


 今日の講習で習った話だったが、南条は黙っていた。


「とすると、救急車が来るまであと3分くらいかな」


 腕時計を見ながら、女が呟いた。


「3分あれば余裕で行けそうね。さっさとあんたたちを始末して、別の男捕まえに行くわ」


 女の目からコンタクトレンズが落ちた。路面に落ちたコンタクトは、ネオンを反射して輝いたあと、どこかに転がっていった。


 コンタクトが外れた女の瞳は、ルビーのように赤く輝いていた。

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